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2016年2月

2016年2月28日 (日)

喜びなさい

ピリピ 4章4節

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 「喜びなさい」とは私たちへの神さまからのオファーです。これに対し、「できません」という理由を私たちはつけることはできません。たとえ体が動かせなくても、まぶたさえ動かせればできるのです。たとえ他の人にはわからなくても、天には伝わっています。私たちは天のお父様の前で「喜んでいなかった」というどんな弁解や申し開きもできないのです。       ではどうしたら、いつもどんな時でも喜んでいられるようになるのでしょう。先週神学校の「感謝と賛美のメッセージ集」の「Joy in God」ではマーリンさんはこう言っていました。

 「するとわかってきたのです。神さまが私に示そうとされていたのは、どんな原因からの理由であれ、どんな困難であれ、私が喜びと平安から遠ざかってしまっていることを、神様は喜んでおられないということでした。イエス様が私のために死んでくださるために来られた時、それは私のすべての咎、すべての病、すべての嘆きを取り除かれるために来られたからです。 ~中略~ それゆえ聖霊様が私に、喜びや平安を与えてくださるのを、私が許していなかったのです。」


 マーリンさんが気づいたように、「喜び」というのは与えられるものではなく、喜ぶべき事実に気づき、喜びを常に十字架の事実から取り戻す作業なのです。それで私は、三日前に起きたアクシデント、右膝の「内側側副靱帯損傷(ないそくそくふく)」を喜びたいと思います。神さま、これにはすばらしい計画があることを感謝します。このように感謝をしていると、このけがを通して、主が私に教えようとされていることがあることに気づきました。

 靱帯損傷の診断を受け、病院から帰った私は、痛みで一人では歩けない状態でした。それで翌朝早速、松葉杖を借りに病院に行った時のことです。最初に対応をしてくださったベテランの看護師さんが、私に「一生松葉杖をつかなければならない人もいるんですから・・・・」と言われたのです。どうしてそんなことを言われたのか、私は後に気づきました。
 それは、今回のことを通して体を弱くされた人のことを思いやりなさい、という示しでした。単なる思索や推量だけでは心が入らない、上辺だけのもので留まってしまうことが多い。しかし実際に、たとえ短期でも体験をすることには、大きな違いがあります。

 もし私たちが真にイエス・キリストの十字架の恵みに実際あずかっていたのであるなら、喜びや平安を失うことはあり得ません。神が与えてくださるのです。すべては神から与えられたのですから、直らない、たといそれが現状の姿であったとしても、感謝します。それが御心です。このことの背後には神さまの御心があります。「どんな原因からの理由であれ、困難であれ、喜びと平安から遠ざかってはならない」のです。体の大切さをこのけがから教えられました。今私はこの痛んだ体が急速に癒やされてきているのを感じます。御心を受け取り、聞き従えば速やかにいやされるのです。みなさん、神は生きておられます!

 

2016年2月21日 (日)

神に愛される人とは

ルカ 18章13節

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 神さまを信じる私たちは、畢竟(詰まるところ)神にあわれまれ、つまり愛され、その恵みに生きている存在です。本日の聖書箇所はそのことをよく言い当てている所です。少し詳しく見ていきましょう。
 パリサイ人と取税人がエルサレム神殿に祈りに来ました。まったく対照的な二人です。パリサイ人とは当時も今も、ユダヤ教の指導者であって、自らも律法を忠実を守っている人でした。ですから「天国に行くなら、真っ先に行ける人」というのが、当時の人々の通念でした。少しこのことも説明しましょう。

律法は言わば憲法のような十戒があり、そこから網の目を広げたように数多くの律法が生まれてきました。例えば安息日を守るために、徹底して労働を禁じるため、何歩以上歩いてはいけない」という決まりがありました。この日には食事の準備や、暗くなって照明をつけるのも律法違反なのです。それでパリサイ人はしない・・・・ではどうするか?貧しい使用人にやらせるのです。つまり金持ちは天国に行けて、貧しい人は行けないのです。この時代、金持ちは神から祝福されていると見なされるのは、このようにして律法を守っているために天国に行けると思われていたからでした。地獄、ではなく天国も金次第というわけです。裕福な人が多かったパリサイ人は、それで律法を守れていたのでしょう。

 対するに取税人ですが、独立をローマに奪われ、そのローマの手先となって税金を集めるユダヤ人、これはそのこと自体が民族への背信行為であって、罪人でした。さらにローマに納める額以上の取り立ては自由に設定できたので、背後にローマがいる取税人は恐れられると同時に、非常に憎まれたのです。

 さてこの二人、一般的にはパリサイ人が「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」とする愛の無さが義とされない理由だとされています。確かにそうですが、自分を義とするのは多くの人がするので、このパリサイ人が特別だと言うわけではありません。しかしパリサイ人というのは宗教的な指導者ですから、隣人への愛の実践をより求められ、逆にこのかけ離れた態度は責められても仕方ありません。しかしそれよりも神の目は取税人に注がれ、御心にかなっていたと言うべきでしょう。

 この取税人は、「神さま、私は生きるために仕方なかったのです」とか「私はまだマシな方で、もっとひどい取り立てをしている者もいます」と申し開きを言うこともできたでしょう。しかし一切そのようなことを口にせず、ただ遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったのです。「自分の胸をたたく」とは慟哭の最たる表現です。泣くことすらできない悲しんでいる、心からの悔い改めです。
 私たち神を信じる者は畢竟(とどの詰まるところ)、神のあわれみという恵みに与った存在です。パリサイ人のようにどんなに良い行いをしようと、律法をいかに遵守しようとも、自分を頼みにし義とする者にはあわれみは注がれません。罪は私たちを覆っており、人と比べてばかりのその私たちはそのことすら理解できないのです。しかし心から悔い改め、罪の縄目から救いを神に求める者の声は、神は必ず聞かれるのです。

 ですから私たちはあわれみ深い天の父に、お一人おひとり真に悔い改め、おすがりし、自分がいかに多く赦されなければならないかを覚えましょう。またそれがゆるされているように、今度はお互いにゆるし合いましょう。愛は神から出るのです。これこそ神から愛をゲットするコツなのです。

2016年2月14日 (日)

神の導きは最善

ルカ 12章48節
 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

 一つ確認すべきことがあります。神を信じない人と同じような審きと言う言葉はクリスチャンに用いられていません。子どもが父に叱られるという表現に終始していることです。父はわが子がどんなに失敗しようと、どんなに親不孝を繰り返そうと、親子の縁を切るとことはありません。かえって不憫に思うのが親の常ですし、第一我が子の養育、教育責任が親にはあります。さらに親は己以上に子を愛するものだからです。ですから偽クリスチャンでない限り、クリスチャンが地獄(ゲヘナ)へ行くことはあり得ないのです。ただ天国で父に対し、お褒めにあずかれるように心がけ、あれこれ苦しい申し開きをするような事態は避けたいものです。

 私が二十代の前半の若かった頃、私に献身して将来牧師にならないかというお声がかかりました。非常に迷いましたが、結局献身しませんでした。今から思えば、これは神の摂理であり、良かったと思いました。神の召命なくして献身してはならないのです。そんなことすら知らなかった私でした。この後、カトリックからも守られ、今となってそれらはすべて神の深い計画による導きと守りであったことがわかります。

 さて私はまだ神の御心がわからないという方、そういうわけで決して裁かれることはありません。安心してください。また神の声が聞こえない、御心がわからないなどと、あきらめずに求め続けましょう。神は今の状態を一つ一つ取り扱っておられ、ついには、御心がわかる者としてくださる課程なのです。それは幼子がハイハイをせずにいきなり立って歩くと障害が出ると言われているように、通らなければならないものなのです。ですから恐れることなく、このことについては感謝し、確信を持たなければなりません。それが今の時の御心だからです。
 私たちの肉の心というものは、ただ神によってのみ、取り除くことができるのです。自分の力では無理です。それがわかっていないのは、高慢であります。ルカ伝の「己れを捨て、己れの十字架を取って」がいかに困難

 ただし私たちにも武器があります。それは聖書と祈りです。私たちに許されている困難には、感謝し、神が最善をなしてくださることを告白します。心から感謝できなければできるよう祈ります。また完全に献身できない自分であれば、それができるように祈ります。自分の心に肉の心が巣くっていれば、そのことの解放を神に祈ります。私たちには力が足りなく、到底不可能なことでも、神にはそれができる力があることを知っており、それを告白する、これが信仰です。

2016年2月 7日 (日)

私の弱さは私の喜び

第2コリント12章9節

12:9  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10  ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 天国が本当に存在することがわかる。これは信仰にとってきわめて重要な土台です。では天国の実在を信じたのか?どうやら二つの道があるようです。

 一つは秋元牧師が語っておられたように、神によって天国が本当にあることを知らされた人です。「天国は本当にある」のコルトン少年や、息子からの話で「まだ見たことのない姉が僕を抱きしめてくれた」話から、信じたお母さんのような人たちのことです。秋元牧師も、あるクリスチャンの死を看取った看護師の話しや、五歳のJr.イリエ・コロアマ少年が写っていた写真から、本当にあることを知らされたのです。
 しかし私はもう一つの道があると思っています。そのように体験とか知らされることはなくても、天国に自分の希望を見出した人たちです。それはイコール自分の弱さ、愚かさに気づかされ、この世にではなく、天国に希望を持つようにされた人たちでもあります。

 例えば私ですが、私は秋元牧師のような不思議な話や体験はありません。しかし、確かに天国の実在と神を信じています。私が自分で賢いと思っていた時は、立派なクリスチャンだと思っていても実は半信半疑な信仰でした。ところが家族の病で疲れ果て、希望を失い、追い打ちをかけたような困難、迫害が襲って来ました。それで、祝福を受けるべきだと思っていた理想的なクリスチャンホームは、見るも無残な状態になりました。私は何一つ誇るものがないように失ったのです。そして私はどうなったのでしょうか。神を呪うこともできましたが、もう神にしか希望がなくなったために、自分を全部、すべて神様にお捧げすることができたのです。
 するとどうなったでしょうか。神様がふれてくださり、素晴らしい信仰が与えられ、こうなりました(笑い)。ハレルヤ!

 結局、信仰とはしっかりと自分を保っているような賢い人にではなく、世的には愚かで惨めな者にあるのです。しかし誰が何と言おうと、人間的にはそのように考えるのが正しかったとしても、ただ一つのこと、「天国が確かにあり、十字架の救いがあり、信じる者はふさわしくなくても、罪が赦され天国に行けるのだ」そのことを愚直なまでに信じ続けている人のことなのです。
 自分が賢いと思う者は自分の判断や世の常識に従って、茨や道ばたに落ちた種、結局不信仰という穴に落ちました。しかし自分の愚かさ、罪深さを知っており、ただその解決である神からずっと目を離さない人、これは聖霊の働きによってでしかあり得ないのです。

 まとめます。つまり信仰者とは、神があらかじめ選び出されて知らされ、働き人をされた人か、または神が時間をかけ、養い導き、この世はふさわしい所ではなかった人なのか、このどちらかなのです。あなたはどちらの方ですか?

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