神の導きは最善
† ルカ 12章48節
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
一つ確認すべきことがあります。神を信じない人と同じような審きと言う言葉はクリスチャンに用いられていません。子どもが父に叱られるという表現に終始していることです。父はわが子がどんなに失敗しようと、どんなに親不孝を繰り返そうと、親子の縁を切るとことはありません。かえって不憫に思うのが親の常ですし、第一我が子の養育、教育責任が親にはあります。さらに親は己以上に子を愛するものだからです。ですから偽クリスチャンでない限り、クリスチャンが地獄(ゲヘナ)へ行くことはあり得ないのです。ただ天国で父に対し、お褒めにあずかれるように心がけ、あれこれ苦しい申し開きをするような事態は避けたいものです。
私が二十代の前半の若かった頃、私に献身して将来牧師にならないかというお声がかかりました。非常に迷いましたが、結局献身しませんでした。今から思えば、これは神の摂理であり、良かったと思いました。神の召命なくして献身してはならないのです。そんなことすら知らなかった私でした。この後、カトリックからも守られ、今となってそれらはすべて神の深い計画による導きと守りであったことがわかります。
さて私はまだ神の御心がわからないという方、そういうわけで決して裁かれることはありません。安心してください。また神の声が聞こえない、御心がわからないなどと、あきらめずに求め続けましょう。神は今の状態を一つ一つ取り扱っておられ、ついには、御心がわかる者としてくださる課程なのです。それは幼子がハイハイをせずにいきなり立って歩くと障害が出ると言われているように、通らなければならないものなのです。ですから恐れることなく、このことについては感謝し、確信を持たなければなりません。それが今の時の御心だからです。
私たちの肉の心というものは、ただ神によってのみ、取り除くことができるのです。自分の力では無理です。それがわかっていないのは、高慢であります。ルカ伝の「己れを捨て、己れの十字架を取って」がいかに困難
ただし私たちにも武器があります。それは聖書と祈りです。私たちに許されている困難には、感謝し、神が最善をなしてくださることを告白します。心から感謝できなければできるよう祈ります。また完全に献身できない自分であれば、それができるように祈ります。自分の心に肉の心が巣くっていれば、そのことの解放を神に祈ります。私たちには力が足りなく、到底不可能なことでも、神にはそれができる力があることを知っており、それを告白する、これが信仰です。
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