私の弱さは私の喜び
† 第2コリント12章9節
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
天国が本当に存在することがわかる。これは信仰にとってきわめて重要な土台です。では天国の実在を信じたのか?どうやら二つの道があるようです。
一つは秋元牧師が語っておられたように、神によって天国が本当にあることを知らされた人です。「天国は本当にある」のコルトン少年や、息子からの話で「まだ見たことのない姉が僕を抱きしめてくれた」話から、信じたお母さんのような人たちのことです。秋元牧師も、あるクリスチャンの死を看取った看護師の話しや、五歳のJr.イリエ・コロアマ少年が写っていた写真から、本当にあることを知らされたのです。
しかし私はもう一つの道があると思っています。そのように体験とか知らされることはなくても、天国に自分の希望を見出した人たちです。それはイコール自分の弱さ、愚かさに気づかされ、この世にではなく、天国に希望を持つようにされた人たちでもあります。
例えば私ですが、私は秋元牧師のような不思議な話や体験はありません。しかし、確かに天国の実在と神を信じています。私が自分で賢いと思っていた時は、立派なクリスチャンだと思っていても実は半信半疑な信仰でした。ところが家族の病で疲れ果て、希望を失い、追い打ちをかけたような困難、迫害が襲って来ました。それで、祝福を受けるべきだと思っていた理想的なクリスチャンホームは、見るも無残な状態になりました。私は何一つ誇るものがないように失ったのです。そして私はどうなったのでしょうか。神を呪うこともできましたが、もう神にしか希望がなくなったために、自分を全部、すべて神様にお捧げすることができたのです。
するとどうなったでしょうか。神様がふれてくださり、素晴らしい信仰が与えられ、こうなりました(笑い)。ハレルヤ!
結局、信仰とはしっかりと自分を保っているような賢い人にではなく、世的には愚かで惨めな者にあるのです。しかし誰が何と言おうと、人間的にはそのように考えるのが正しかったとしても、ただ一つのこと、「天国が確かにあり、十字架の救いがあり、信じる者はふさわしくなくても、罪が赦され天国に行けるのだ」そのことを愚直なまでに信じ続けている人のことなのです。
自分が賢いと思う者は自分の判断や世の常識に従って、茨や道ばたに落ちた種、結局不信仰という穴に落ちました。しかし自分の愚かさ、罪深さを知っており、ただその解決である神からずっと目を離さない人、これは聖霊の働きによってでしかあり得ないのです。
まとめます。つまり信仰者とは、神があらかじめ選び出されて知らされ、働き人をされた人か、または神が時間をかけ、養い導き、この世はふさわしい所ではなかった人なのか、このどちらかなのです。あなたはどちらの方ですか?
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