神に愛される人とは
† ルカ 18章13節
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
神さまを信じる私たちは、畢竟(詰まるところ)神にあわれまれ、つまり愛され、その恵みに生きている存在です。本日の聖書箇所はそのことをよく言い当てている所です。少し詳しく見ていきましょう。
パリサイ人と取税人がエルサレム神殿に祈りに来ました。まったく対照的な二人です。パリサイ人とは当時も今も、ユダヤ教の指導者であって、自らも律法を忠実を守っている人でした。ですから「天国に行くなら、真っ先に行ける人」というのが、当時の人々の通念でした。少しこのことも説明しましょう。
律法は言わば憲法のような十戒があり、そこから網の目を広げたように数多くの律法が生まれてきました。例えば安息日を守るために、徹底して労働を禁じるため、何歩以上歩いてはいけない」という決まりがありました。この日には食事の準備や、暗くなって照明をつけるのも律法違反なのです。それでパリサイ人はしない・・・・ではどうするか?貧しい使用人にやらせるのです。つまり金持ちは天国に行けて、貧しい人は行けないのです。この時代、金持ちは神から祝福されていると見なされるのは、このようにして律法を守っているために天国に行けると思われていたからでした。地獄、ではなく天国も金次第というわけです。裕福な人が多かったパリサイ人は、それで律法を守れていたのでしょう。
対するに取税人ですが、独立をローマに奪われ、そのローマの手先となって税金を集めるユダヤ人、これはそのこと自体が民族への背信行為であって、罪人でした。さらにローマに納める額以上の取り立ては自由に設定できたので、背後にローマがいる取税人は恐れられると同時に、非常に憎まれたのです。
さてこの二人、一般的にはパリサイ人が「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」とする愛の無さが義とされない理由だとされています。確かにそうですが、自分を義とするのは多くの人がするので、このパリサイ人が特別だと言うわけではありません。しかしパリサイ人というのは宗教的な指導者ですから、隣人への愛の実践をより求められ、逆にこのかけ離れた態度は責められても仕方ありません。しかしそれよりも神の目は取税人に注がれ、御心にかなっていたと言うべきでしょう。
この取税人は、「神さま、私は生きるために仕方なかったのです」とか「私はまだマシな方で、もっとひどい取り立てをしている者もいます」と申し開きを言うこともできたでしょう。しかし一切そのようなことを口にせず、ただ遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったのです。「自分の胸をたたく」とは慟哭の最たる表現です。泣くことすらできない悲しんでいる、心からの悔い改めです。
私たち神を信じる者は畢竟(とどの詰まるところ)、神のあわれみという恵みに与った存在です。パリサイ人のようにどんなに良い行いをしようと、律法をいかに遵守しようとも、自分を頼みにし義とする者にはあわれみは注がれません。罪は私たちを覆っており、人と比べてばかりのその私たちはそのことすら理解できないのです。しかし心から悔い改め、罪の縄目から救いを神に求める者の声は、神は必ず聞かれるのです。
ですから私たちはあわれみ深い天の父に、お一人おひとり真に悔い改め、おすがりし、自分がいかに多く赦されなければならないかを覚えましょう。またそれがゆるされているように、今度はお互いにゆるし合いましょう。愛は神から出るのです。これこそ神から愛をゲットするコツなのです。
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