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2016年3月

2016年3月27日 (日)

家族への伝道・私たちは死なない

Ⅰコリント 15章51節
 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

 皆さんは、人間は死んだら終わりで、もう何もないとお思いでしょうか?「死んだらお終い」ではありません。私はみなさんと同じく「肉体はなくなろうとも、人の霊は生きている」と信じています。重要な問題は、霊の世界が二つあり、肉体から離れた霊は、天国と地獄のどちらかに行くことです。まちがってもゲヘナという地獄に行ってはいけないのです。
 
(マタイ伝16章)この「金持ちとラザロ」のお話。Photo
 ラザロ(=エレアザル「神が助け」の短縮形)は全身のおできのために、働くこともできず、今で言う福祉、人々の善意を頼りにするしかない身の上でした。当時、金持ちは神から祝福されていた人と考えられていましたので、ラザロは「生きている間、悪い物を受けていた」、弱く貧しく、不幸な人でした。
しかしラザロは名前の通り、このような病にかかり、周囲から見捨てられても信仰を持ち続けました。最後まで主に信頼して信仰を貫いたが故に、地上の生活とは逆転して、栄光の座に迎い入れられました。
 それに対し世で祝福された存在の金持ちは、王様並みの豊かさでした。金持ちであることが悪いのではなく、有り余る豊かさを分け合う、あわれみの欠片こそ示さなかった、それは隣人を愛しなさいという教え(申命記15:7・箴言14:31)に従う信仰がなかったことが問題でした。
 
 ラザロは願った残飯も与えられず、犬しか慰めてくれない中飢えて死んだと思われます。一方、あわれみのない者に対しては、あわれみのないさばき(ヤコブの手紙2:13)でした。金持ちも死んで、盛大に葬られました。しかし酬いとして、ハデスに落とされ、永遠の炎熱の苦しみを受けることになったのです。見上げるとはるかかなたの上の方に、天国を見つけ、ラザロとアブラハムを見ました。そこでラザロを使って自分が慰められたいと願いますが、却下されます。この二つの国は大きな淵のため行き来ができないのです。次に金持ちはアブラハムに、地上の兄弟たちにゲヘナに来ないよう、ラザロをよみがえらせての派遣を願います。
  しかしアブラハムは、たとえラザロが生き返って現れ、たとえ金持ちの兄弟が驚いたとしても、聖書を信じない者が「聞き入れはしない」と断じます。これは非常に大切なポイントで、これからの終末の時代、いろいろな不思議や奇跡が起こされて行くでしょう。しかしそれだけで多くの人が信じるようになるとは、考えが甘いのです。不思議な出来事に目を奪われるのではなく、聖書の神を信じ受け入れる、これがポイントです。リバイバルが始まった今、御言葉をさらに熱心に求め、より神に聞き従い、賜物の運用を聖書的に用いることがいっそう重要です。
 
 私たちはこの世では寄留者であり旅人です。天の故郷に帰るその日まで、「愛する人々をゲヘナに行かせない」よう、聖霊の力によって福音を語り続けましょう。

2016年3月20日 (日)

御霊に満たされていなさい

ガラテヤ 5章16節
 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
エペソ 5章18節
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 これは他の命令、例えば「大宣教命令」や「絶えず感謝しなさい」よりも重要です。なぜなら、聖霊に満たされることがすべての土台であり、聖霊の働きによってそれらは実現するものだからです。これがコリント教会に語られたのではなく、当時最も霊的な教会であったエペソ教会に語られたことに、大きな意味があります。この聖霊に満たされて行くこと、成熟したクリスチャンになることが神の御心なのです。なぜなら、何のために神は御子キリストを世に遣わされたのでしょう。十字架の贖いは、聖霊様があなたの内住されるためではなかったのでしょうか?
 
 ただ信じることと、聖霊によって満たされることとには大きな違いがあります。聖霊によって満たされることなしには、自分の内にある罪に打ち勝つことができず(ガラテヤ 5:16)、力ある神の働きができない(使徒 1:8)からです。これは同じ神を信じているとはいえ、永遠の住まいである天でも地でも、実に大きな結果の違いになるのです。
 
 では聖霊の満たしを求めて熱心に祈り求めても、 Thedoor_3
その願いがかなわない人がいます。御心なのになぜでしょうか?これにはただ一つの理由しかありません。祈り求めているその人に罪があるからです。絵を見てください。確かに聖霊の満たしを求めてひざまづいて懇願してはいます。神も戸口に立って、入ろうとしてくださっています。にも関わらず、ずっとそのままです。なぜでしょう?そうです、ドアの鍵を開けていないのです。鍵は中にいる人が開けなくては開きません。サタンと違って神は押し入って入られない、謙遜な方です。あくまで自分で自分の心のドアを開けるまで、実に忍耐して待ってくださっているのです。ただ残念なことに、聖霊の満たしを求めている人は、いつまで経ってもそのことに気づかないでいるのです。これも罪がこの事態を気づかなくさせているのです。
 
 では罪とは何でしょうか。例えば自分は正しい、間違っていないという自己正当化です。被害者だと思い込んでいることもあるでしょう。だから許すことができません。他の人と比較して自分を位置づけており、神の目、聖書から自分を見ようとはしていません。どんなに自分が隣人を愛せないか、そのことにも気づきません。要するに高慢なのです。サタンも同じでした。不当にも自分で自分を義と認定しているのです。神に裁かれること、これが罪です。神の「あわれみ」がわからないことも罪の状態にあるということです。
 
 みなさん、神に自分の真の姿を探っていただきましょう。それが白日の下にさらされた時、どれほどの痛みが来ようと、それは真のいやしの涙です。じきに喜びがあなたを覆うことでしょう。
 そして罪と血を流してまで戦ってください。その先には神の勝利があります。聖霊の満たしのために、自分の真の姿を見る決心をするなら、必ずそれは訪れます。どうか神の前に進み出て、己の中に深く隠蔽された罪を探っていただき、アーメンと告白しましょう。聖霊の満たしの恵みは言葉に言い表せない祝福なのです。

2016年3月13日 (日)

先ず第一に求めるもの

マタイ 6:31-34
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

 ウルグアイという南米の国に、ムヒカ大統領が言った言葉「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲が有り、いくらあっても満足しない人のことだ」が心に沁みます。大統領としてのほとんどの収入を献金し、自身は月千ドルで郊外の小さな農園に暮らしました。自分の財産は小さな農園と古いビートル、それにトラクター1台でした。しかし大統領になる前のムヒカさんは、ゲリラ上がりで6発の銃弾を受けて、13年も刑務所にいた人です。そんなところは南アのマンデラ大統領とよく似ていますね。
 
 さて欠乏感に取り憑かれている現代人にとって、「飽くなき物欲に支配されている自分」とその脱出を探すことは、本当の幸福を見つけるスタートになるのです。それは単に諦観したり、哲学にふけるといった、我慢したり、他のことに熱中することでは一時的なものに終わることでしょう。そうではなく、命よりも大切なもの、幸福なもの、価値ある生き方を見出すことではないでしょうか。
 
 そしてそれは、真の神を信じ、従うことでしか実現しないことを、私は断言できます。聖書にある「心を尽くし、思いを尽くして、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とは、三千五百年前から今に至るまで、変わらぬ真実な言葉です。
 神さまは、その人その人に何が必要かをご存知です。皆が皆、同じものが必要なのではありません。ひとそれぞれ異なるのです。人が持っているものを羨んでも、それは貪欲の罪に当たるかも知れませんし、せっかく手に入れても、宝の持ち腐れというか、失望を味わうことさえあります。これらは神に自分の命の目的、真の生かされた方を聞いていなくて、空しく世をさま迷っている姿です。
 
 私たちはそうであってはなりません。神さまを信頼し、御手の中にご自分の生活、生き甲斐、能力、喜び、感謝を見出しましょう。それでも世の人々はお墓とか法事、近所のお勤めなどいろいろな世のことを言ってきますが、それらは私たちにとっては枝葉末節なことですし、正直関わりたくないことです。しかしながら、イエス様が魚の口から1ステタル貨を納めさせたように、「人をつまづかせない」程度には対応するにとどめましょう。
 何よりも先ず「神の国と神の義を求めよ」です。あなたの「神の国」、あなたの「神の義」は何でしょうか?
 
 私たちは激しい消費社会に踊らされています。会社としては売れるもの作りとその販売に命を賭けているわけです。ですから私たちクリスチャンとしては、神の御心と与えられた使命をまず第一にし、徹底して聞き従っていけるよう、聖霊の満たしと祈りとを求め、強めて行かなければなりません。世における私の神の国とは、その中で成就し神の栄光が現されていくことでしょう。

2016年3月 6日 (日)

神の訪れの時

ルカ 19章44節
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。

  当時の宗教的指導者であったパリサイ人やサドカイ人は、聖書をよく知っており、メシアを待望していました。ところがイエス様がご自分のことを、数々の証拠を持ってメシアであると明らかにされても、受け入れないどころか、「人でありながら、自分を神だと言っている」として冒涜罪で最も残酷な十字架に架けました。

 こうしてユダヤの民は神の訪れを拒み、殺し、自分たちの描いたメシアを待ち望みました。しかし当然ながらそのメシアは訪れずれることがありませんでした。紀元 65年、悪辣なローマ総督に対し暴動を起こし、翌 66年には民族をかけてローマとの戦いに発展しました。6万のローマ軍が派遣され、エルサレムは完膚なきまでに破壊され、生き残った民はこの後の二千年間も国なき民として、世界中を放浪することになったのです。メシアを殺し、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。(マタイ 27章25)」と叫んだユダヤの民は単に国を失っただけでなく、歴史上類を見ないほどの過酷な旅が待っていました。

 ロシアでのポグロム、ナチスのホロコーストなどの多くの犠牲を払いながら、ついに時が来て、1948年に聖書の預言通りイスラエルは元の地に再建されました。こうなった理由はただ一つ、イエス様という「神の訪れの時を知らなかった」、この誤まりに尽きるのです。ユダヤ人が犯した誤りを私たちは繰り返してはなりません。今生きている私たちが必ず迎えるだろうと思っていることに、黙示録の終末が来ること、同時にこの日本で非常な臨在の中、リバイバルが起こるのです。リバイバルの訪れを知らなかったでは済まされないのです。 

 未だにユダヤ人のほとんどは、イエス・キリストが救い主、メシアであることを認めません。そして同じようにほとんどの日本人も、イエス・キリストを信じようとはしません。キリスト教伝道が自由な国で、これほど福音が不毛な国はありません。しかし約四百年前、キリスト教のカトリックがこの国の十分の一の割合を占めたことがあります。しかし徳川幕府の弾圧によってキリスト教は抑圧され、封印されました。キリスト教の歴史上、これほど福音宣教が大規模に敗退した例はないことでしょう。

 終末前の今日、イスラエルも日本も、クリスチャンの割合が奇妙に少ない数で一致しています。世界のリバイバルの起点・先駆けとして日本が、またその終点としてのイスラエルが備えられていると私は示されています。ユーラシア大陸の端点にあるこの二つたる国への神の計画は深遠です。私たちが神の訪れの時を同胞へ宣べ伝え、証しする器として用いられることでしょう。みなさん、目を覚まし、準備をしておくのです。

 

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