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2016年3月20日 (日)

御霊に満たされていなさい

ガラテヤ 5章16節
 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
エペソ 5章18節
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 これは他の命令、例えば「大宣教命令」や「絶えず感謝しなさい」よりも重要です。なぜなら、聖霊に満たされることがすべての土台であり、聖霊の働きによってそれらは実現するものだからです。これがコリント教会に語られたのではなく、当時最も霊的な教会であったエペソ教会に語られたことに、大きな意味があります。この聖霊に満たされて行くこと、成熟したクリスチャンになることが神の御心なのです。なぜなら、何のために神は御子キリストを世に遣わされたのでしょう。十字架の贖いは、聖霊様があなたの内住されるためではなかったのでしょうか?
 
 ただ信じることと、聖霊によって満たされることとには大きな違いがあります。聖霊によって満たされることなしには、自分の内にある罪に打ち勝つことができず(ガラテヤ 5:16)、力ある神の働きができない(使徒 1:8)からです。これは同じ神を信じているとはいえ、永遠の住まいである天でも地でも、実に大きな結果の違いになるのです。
 
 では聖霊の満たしを求めて熱心に祈り求めても、 Thedoor_3
その願いがかなわない人がいます。御心なのになぜでしょうか?これにはただ一つの理由しかありません。祈り求めているその人に罪があるからです。絵を見てください。確かに聖霊の満たしを求めてひざまづいて懇願してはいます。神も戸口に立って、入ろうとしてくださっています。にも関わらず、ずっとそのままです。なぜでしょう?そうです、ドアの鍵を開けていないのです。鍵は中にいる人が開けなくては開きません。サタンと違って神は押し入って入られない、謙遜な方です。あくまで自分で自分の心のドアを開けるまで、実に忍耐して待ってくださっているのです。ただ残念なことに、聖霊の満たしを求めている人は、いつまで経ってもそのことに気づかないでいるのです。これも罪がこの事態を気づかなくさせているのです。
 
 では罪とは何でしょうか。例えば自分は正しい、間違っていないという自己正当化です。被害者だと思い込んでいることもあるでしょう。だから許すことができません。他の人と比較して自分を位置づけており、神の目、聖書から自分を見ようとはしていません。どんなに自分が隣人を愛せないか、そのことにも気づきません。要するに高慢なのです。サタンも同じでした。不当にも自分で自分を義と認定しているのです。神に裁かれること、これが罪です。神の「あわれみ」がわからないことも罪の状態にあるということです。
 
 みなさん、神に自分の真の姿を探っていただきましょう。それが白日の下にさらされた時、どれほどの痛みが来ようと、それは真のいやしの涙です。じきに喜びがあなたを覆うことでしょう。
 そして罪と血を流してまで戦ってください。その先には神の勝利があります。聖霊の満たしのために、自分の真の姿を見る決心をするなら、必ずそれは訪れます。どうか神の前に進み出て、己の中に深く隠蔽された罪を探っていただき、アーメンと告白しましょう。聖霊の満たしの恵みは言葉に言い表せない祝福なのです。

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