フォト
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月

2016年4月24日 (日)

マラ(苦い水)は何のためか

出エジプト 15章23節
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
 今日はイスラエルの試練を通して、試練の意味、どうして感謝するのかということを、学んでみたいと思います。
モーセはエジプトの王家一員として、 40才まで育ち、後の40年はシナイとアラビアで羊飼いでした。これはファラオとの交渉やその後民を導く者最適です。
「イスラエルの民の脱出ルート図解」                                          Exodus    
元王族ですから、ファラオを対決するのに一歩も臆することもありませんでした。この成功がただ神の力100%に依ったことを最もよく知っていたのでした。
 その契機となったエジプトの長子がみな殺される出来事ですが、イスラエル人は皆守られました。神が命じられた命令を守ったからです。それは一匹の傷のない一歳の雄の子羊を犠牲にし、その血をイスラエルの家の二本の門柱とかもいに塗ることでした。血で塗られた家だけが神のさばきを受けずに過ぎ去った、これは、イエス・キリストの犠牲という予表でした。
 
 脱出した後、イスラエルの三百万以上の民にとって、水が緊急課題でした。最初にたどりついたオアシス、マラには水があっても苦く、飲める水ではありませんでした。落胆し怒る民はモーセに詰め寄りました。このようなことは、この後幾度も繰り返されます。続くシンの荒野では食糧が尽きてパンと肉を求めました。その次のレフィデムでは同じように水を。その都度民は、「荒野で飢え死ぬより、エジプトで奴隷の方がよかった」と呟くのでした。
 マラで苦い水に木を投げ入れました。これも一つの予表です。一片の木を取ってそれを苦い水、つまり不信仰の民、または罪の底に沈めて、水は清められ甘くなった。その木とは十字架の木です。十字架という贖いによって罪が赦される予表でなのです。
 イスラエルの数々の困難試練は、見えるモーセにではなく、モーセを通して見えない神に救いを得る者となるためであり、またイスラエルの民を通してキリストの現れを示すためでもあったのです。みなさんの今の困難は、良い結果を期待しての結果、苦い水であったかも知れません。しかし固く信じて下さい。苦い水を通し、真に神の購いの恵みを受けるようにしておられるのです。決してあきらめてはなりません。  
聖書はこう言っています。 
「彼に 信頼する者は、失望させられることがない。」 ローマ 10章11節

2016年4月17日 (日)

すくい (罪意識の問題)

ロ-マ 5章18節
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が 罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
 東京神学校の HPに「なぜクリスチャンになる人は少いのか」が載っていました。クリスチャンと言えるのは、イエス・キリストの実在やそれをただ信じるだけでは不十分で、「十字架のイエスの死が、自分の罪の身代わりなのだということがわからなければならない」とありました。「パッション」という映画がありましたが、あの映画ではキリストがむち打たれるむごいシーンがありました。後で聞くと、映画館で気絶した人まで出たそうです。真のクリスチャンならそうなると思います。クリスチャンにとっては、あのむちの痛みは本来、自分が受けなければならなかったことなのですから。

自分がどれほど罪深く、自分の力では脱出不可能な罪の底に沈殿している認識が必須です。そうでなければ、救われなければならない自分はありません。聖書も十字架も神も、必要ないのです。神を信じない人はみな同じです。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。
 しかし一方、人間的などんな努力をしようと、「このままでは自分は地獄行きだ」と自覚した者にとっては、十字架は神の力であり、救いです。神ご自身がその人の一切の罪の身代わりとなって引き受けてくださったからです。ただし注意してください。神が身代わりという代価を払って買い戻された神の所有物、それがあなたであり、あなたは神の奴隷なのです。奴隷というのは、すべて主人の意のままに動かなければなりません。ですから神に聞き従わない奴隷は、天国には行けてもご褒美というか、天の宝に差があると思われます。
 ところで新生と言うことについて、みなさんはどのように体験していますか。カトリックや正教、英国国教会は洗礼と同時に新生するというドグマ(教義)です。しかし多くのプロテスタント教会では、そうは受け取っていません。形式である儀式そのものに力があるのではなく、回心という個人的な体験を通し、新生が神から賦与されるとしています。
  さらにカリスマ派やペンテコステ派は一歩進めて、聖霊のバプテスマを受けることによって新生し、神と交わり、神のオーダーが分かり、神に聞き従う人生をスタートさせることができるとしている。この派の人たちの見方(つまり私たち主の十字架)では、バプテスマに水のバプテスマと聖霊のバプテスマの二つがあり、新生は後者のことを指すとなっています。つまり神に聞き従う人生とは、新生した者の特徴なのです。

2016年4月10日 (日)

祈りの力

Ⅱ歴代 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
 
 祈ることなしにはクリスチャン生活は成り立たないというほど、祈りは重要必須です。祈らないクリスチャンというものは、まことにひ弱な信仰であり、力のないクリスチャンです。バプテスマを受けて以来何十年も、私も力のないクリスチャンでした。祈りが答えられるというケースを見たことがなく、教会にもその信仰がありませんでした。聖霊と聖霊の賜物すら知らないのに、聖霊云々する教会や人々を「熱狂的でおかしな信仰」と批判し、我こそが正しい聖書的な信仰だと自認していた背景がありました。
 祈りについては、イエス様が再々注意している点があります。見栄と偽善のためにする律法学者の祈りです。彼らは人通りの目立つところで祈って見せ、取税人と並んで祈ると、共に祈っている人すら見下して祈りました。このような祈りはさばきを招くことはあっても、神に聞かれることはありません。
 では聞かれる祈りとは何があるのでしょうか。聖書は次のように教えてくれています。へりくだって祈る(Ⅱ歴代 7:14)、御霊によって祈る(エペソ 6:18)、忍耐して祈る(同左)の三つの土台があります。そしてこの土台の上に、一切の世のことを排してどんな時にもいつでも感謝して祈る(ピリピ 4:6)のです。私は祈りにいろいろな条件があるのではなく、実はただ一つのことを言っていると思わされています。それは「聖霊によって祈る」です。聖霊によって祈るなら、高慢は打ち砕かれ謙遜にならざるを得ません。へりくだった謙遜さは、感謝の態度の心を生みます。聖霊によって祈るなら、御心の祈りをします。御心なので成就する希望と忍耐が伴い、我々をくじこうとするあらゆるサタンの計画に打ち勝ちます。私には不可能でも、神には不可能はなく、圧倒的にサタンに勝利されているのです。
 
 一昨日、映画「祈りの力(原題War Room)」を試写会で拝見しました。離婚寸前のクリスチャン夫婦が舞台でした。互いを不信と憎しみに追い込み、ついには破局に至らせるのは、実は夫や妻というより、悪霊に操られているのだということが描かれていました。内容的には日本語名の「祈りの力」というより原題の「War Room」、つまりクローゼットという小さな部屋を舞台にした「祈りによる(霊的な)戦い」と言う方が正しいと思いました。「サタン」「見破る」「戦う」という言葉が盛んに用いられ、その勝利は部屋の外、家の外にまで大声で語られて行くのです。これは私たち主の十字架の祈りと同じです。つまりこの映画を観ることで洋の東西を問わず、神は唯一であること、なされることも一つであることがよく分かります。
 この国においては私たちはまだ少数であっても、全世界にあまねくおられ、支配しておられる神が、私たちのバックです。神に聞き従う祈りによって私たちは立ち上がり、勝利に向かって前進するのです。

2016年4月 3日 (日)

神を喜ばせようとして語る

1テサ2章2ー4節
2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

 
 法事の席でのことです。示されて私は親族全員が一同に会する食事の機会に伝道メッセージをしたのです。ルカ 16章「お金持ちとラザロ」の紙芝居と、死後の世界があること、聖書と十字架を信じて天国に行くよう語りました。すると予想していた「布教するな。この場にふさわしくない」と強いクレームがありましたが、それが落ち着くと、若い親族から「キリスト教徒だけが天国に行けるというのは独善ではないか」という意見が出たのです。これを待ってました。
 幼子や学童期には、きちんと罪意識があるものの、人は成長し自分の位置づけがわかるようになると、自分で自分を「まっ、いいんじゃないの」と義としてしまいます。この世での成功、富、力が得られたと思えば、それにますます拍車がかかるのは自然です。こうして多くの人は自分が良いから良くなったと高慢に陥ります。福音はこの自分を義人とする者を打ち砕くのです。ですから真に福音を語れば、迫害を受けることが前提となります。神を信じる者は、世を恐れるのではなく、神を畏れ神に従わなければなりません。
 その結果、福音は人々をリトマス試験紙のように大きく三つのタイプに選り分けます。一つは福音を拒否し、迫害する者。逆に福音を信じ受け入れる人。そして中性のようにどちらか迷い、信じあぐねる人とに。「キリスト教徒だけが天国に行けるのは独善」の問いは、この最後に属する問いです。みなさんはどうお答えになりますか。「そうだ、確かに」なんて答えないでくださいよ。私が示された答えた言葉は「それはその人の罪意識の問題でしょう」でした。
   「あの人は良い人」だから天国へ行けるはずだ…は間違っています。私たち人間同士の評価「良い人」「悪い人」は、聖書で明らかな神の視点から見れば、取るに足りない五十歩百歩であって、全員地獄行きなのです。最後の審判では「全員生前の行いがさばかれ、いのちの書に名の記されていない者は、みなさばかれる」のです。
 たとえラザロのように、一度死んだ者が生き返って「死後の世界のさばき」を説いたところで、聖書を信じず神に従わない者は、驚きはしても受け入れて悔い改めることができません。「救われなければならない自分」として意識できていなければ、ラザロを「気味が悪い」「とっとと地獄へ帰れ」と叩き出してしまうかも知れません。アブラハムの言う通りです。
 福音は救いのニュースです。十字架によって罪が赦されて天へ行けるのです。「クリスチャンだけが」ではなく、「十字架だけが罪を赦す力」です。罪意識のない者はその福音を受け入れることができません。主が示されるならば、どんな困難があろうとも恐れずに語る勇気も添えていただけます。私たちは「 神を喜ばせたい 」からです。

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »