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2016年4月10日 (日)

祈りの力

Ⅱ歴代 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
 
 祈ることなしにはクリスチャン生活は成り立たないというほど、祈りは重要必須です。祈らないクリスチャンというものは、まことにひ弱な信仰であり、力のないクリスチャンです。バプテスマを受けて以来何十年も、私も力のないクリスチャンでした。祈りが答えられるというケースを見たことがなく、教会にもその信仰がありませんでした。聖霊と聖霊の賜物すら知らないのに、聖霊云々する教会や人々を「熱狂的でおかしな信仰」と批判し、我こそが正しい聖書的な信仰だと自認していた背景がありました。
 祈りについては、イエス様が再々注意している点があります。見栄と偽善のためにする律法学者の祈りです。彼らは人通りの目立つところで祈って見せ、取税人と並んで祈ると、共に祈っている人すら見下して祈りました。このような祈りはさばきを招くことはあっても、神に聞かれることはありません。
 では聞かれる祈りとは何があるのでしょうか。聖書は次のように教えてくれています。へりくだって祈る(Ⅱ歴代 7:14)、御霊によって祈る(エペソ 6:18)、忍耐して祈る(同左)の三つの土台があります。そしてこの土台の上に、一切の世のことを排してどんな時にもいつでも感謝して祈る(ピリピ 4:6)のです。私は祈りにいろいろな条件があるのではなく、実はただ一つのことを言っていると思わされています。それは「聖霊によって祈る」です。聖霊によって祈るなら、高慢は打ち砕かれ謙遜にならざるを得ません。へりくだった謙遜さは、感謝の態度の心を生みます。聖霊によって祈るなら、御心の祈りをします。御心なので成就する希望と忍耐が伴い、我々をくじこうとするあらゆるサタンの計画に打ち勝ちます。私には不可能でも、神には不可能はなく、圧倒的にサタンに勝利されているのです。
 
 一昨日、映画「祈りの力(原題War Room)」を試写会で拝見しました。離婚寸前のクリスチャン夫婦が舞台でした。互いを不信と憎しみに追い込み、ついには破局に至らせるのは、実は夫や妻というより、悪霊に操られているのだということが描かれていました。内容的には日本語名の「祈りの力」というより原題の「War Room」、つまりクローゼットという小さな部屋を舞台にした「祈りによる(霊的な)戦い」と言う方が正しいと思いました。「サタン」「見破る」「戦う」という言葉が盛んに用いられ、その勝利は部屋の外、家の外にまで大声で語られて行くのです。これは私たち主の十字架の祈りと同じです。つまりこの映画を観ることで洋の東西を問わず、神は唯一であること、なされることも一つであることがよく分かります。
 この国においては私たちはまだ少数であっても、全世界にあまねくおられ、支配しておられる神が、私たちのバックです。神に聞き従う祈りによって私たちは立ち上がり、勝利に向かって前進するのです。

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