神を喜ばせようとして語る
† 1テサ2章2ー4節
2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
法事の席でのことです。示されて私は親族全員が一同に会する食事の機会に伝道メッセージをしたのです。ルカ 16章「お金持ちとラザロ」の紙芝居と、死後の世界があること、聖書と十字架を信じて天国に行くよう語りました。すると予想していた「布教するな。この場にふさわしくない」と強いクレームがありましたが、それが落ち着くと、若い親族から「キリスト教徒だけが天国に行けるというのは独善ではないか」という意見が出たのです。これを待ってました。
幼子や学童期には、きちんと罪意識があるものの、人は成長し自分の位置づけがわかるようになると、自分で自分を「まっ、いいんじゃないの」と義としてしまいます。この世での成功、富、力が得られたと思えば、それにますます拍車がかかるのは自然です。こうして多くの人は自分が良いから良くなったと高慢に陥ります。福音はこの自分を義人とする者を打ち砕くのです。ですから真に福音を語れば、迫害を受けることが前提となります。神を信じる者は、世を恐れるのではなく、神を畏れ神に従わなければなりません。
その結果、福音は人々をリトマス試験紙のように大きく三つのタイプに選り分けます。一つは福音を拒否し、迫害する者。逆に福音を信じ受け入れる人。そして中性のようにどちらか迷い、信じあぐねる人とに。「キリスト教徒だけが天国に行けるのは独善」の問いは、この最後に属する問いです。みなさんはどうお答えになりますか。「そうだ、確かに」なんて答えないでくださいよ。私が示された答えた言葉は「それはその人の罪意識の問題でしょう」でした。
「あの人は良い人」だから天国へ行けるはずだ…は間違っています。私たち人間同士の評価「良い人」「悪い人」は、聖書で明らかな神の視点から見れば、取るに足りない五十歩百歩であって、全員地獄行きなのです。最後の審判では「全員生前の行いがさばかれ、いのちの書に名の記されていない者は、みなさばかれる」のです。
「あの人は良い人」だから天国へ行けるはずだ…は間違っています。私たち人間同士の評価「良い人」「悪い人」は、聖書で明らかな神の視点から見れば、取るに足りない五十歩百歩であって、全員地獄行きなのです。最後の審判では「全員生前の行いがさばかれ、いのちの書に名の記されていない者は、みなさばかれる」のです。
たとえラザロのように、一度死んだ者が生き返って「死後の世界のさばき」を説いたところで、聖書を信じず神に従わない者は、驚きはしても受け入れて悔い改めることができません。「救われなければならない自分」として意識できていなければ、ラザロを「気味が悪い」「とっとと地獄へ帰れ」と叩き出してしまうかも知れません。アブラハムの言う通りです。
福音は救いのニュースです。十字架によって罪が赦されて天へ行けるのです。「クリスチャンだけが」ではなく、「十字架だけが罪を赦す力」です。罪意識のない者はその福音を受け入れることができません。主が示されるならば、どんな困難があろうとも恐れずに語る勇気も添えていただけます。私たちは「 神を喜ばせたい 」からです。
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