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2016年4月17日 (日)

すくい (罪意識の問題)

ロ-マ 5章18節
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が 罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
 東京神学校の HPに「なぜクリスチャンになる人は少いのか」が載っていました。クリスチャンと言えるのは、イエス・キリストの実在やそれをただ信じるだけでは不十分で、「十字架のイエスの死が、自分の罪の身代わりなのだということがわからなければならない」とありました。「パッション」という映画がありましたが、あの映画ではキリストがむち打たれるむごいシーンがありました。後で聞くと、映画館で気絶した人まで出たそうです。真のクリスチャンならそうなると思います。クリスチャンにとっては、あのむちの痛みは本来、自分が受けなければならなかったことなのですから。

自分がどれほど罪深く、自分の力では脱出不可能な罪の底に沈殿している認識が必須です。そうでなければ、救われなければならない自分はありません。聖書も十字架も神も、必要ないのです。神を信じない人はみな同じです。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。
 しかし一方、人間的などんな努力をしようと、「このままでは自分は地獄行きだ」と自覚した者にとっては、十字架は神の力であり、救いです。神ご自身がその人の一切の罪の身代わりとなって引き受けてくださったからです。ただし注意してください。神が身代わりという代価を払って買い戻された神の所有物、それがあなたであり、あなたは神の奴隷なのです。奴隷というのは、すべて主人の意のままに動かなければなりません。ですから神に聞き従わない奴隷は、天国には行けてもご褒美というか、天の宝に差があると思われます。
 ところで新生と言うことについて、みなさんはどのように体験していますか。カトリックや正教、英国国教会は洗礼と同時に新生するというドグマ(教義)です。しかし多くのプロテスタント教会では、そうは受け取っていません。形式である儀式そのものに力があるのではなく、回心という個人的な体験を通し、新生が神から賦与されるとしています。
  さらにカリスマ派やペンテコステ派は一歩進めて、聖霊のバプテスマを受けることによって新生し、神と交わり、神のオーダーが分かり、神に聞き従う人生をスタートさせることができるとしている。この派の人たちの見方(つまり私たち主の十字架)では、バプテスマに水のバプテスマと聖霊のバプテスマの二つがあり、新生は後者のことを指すとなっています。つまり神に聞き従う人生とは、新生した者の特徴なのです。

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