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2016年5月

2016年5月29日 (日)

キリスト者の自由

ガラテヤ 5章1節
 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 今日の聖書箇所を、()書きの注釈を付けるなら、・・・キリストは(罪からの)自由を得させる(与える)ために、私たちを(十字架にかかるという、血の代価を払ってまで、私たちを罪から)解放してくださいました・・・と言うことになります。
 
 私は長い間福音派の教会におり、この箇所のメッセージは何度も聞きました。福音派の人たちにとってもここはよい聖句のようでして、「自由」についていろいろウンチクを語られるのですが、理想過ぎて別世界の話に聞こえました。なんだか自由にされて、何でもこれから好きなことができるんだ、そんな今から考えると後半にパウロが戒めている肉的な気持ちにもされたのです。

とんでもないことです。ここは次に語られている「聖霊によって歩みなさい」がポイントなのです。しかし聖霊を理解していない教派ばかりでしたので、心に届かないのは当然でした。
 「自由を与える与えられるために召された」とパウロが言った背景として、神はサタンのように<強制し、支配>することがお出来になれないということがあります。神の本質は愛なので、人もまた愛をもって神であるご自分に従い、御心を行うことをお望みです。自由な状態でなおかつ、神への服従、献身を喜ばれるのです。自由とはそのようにして使われものなのです。
 
 しかしこの自由は、全宇宙とすべての命を創造された神ご自身の十字架というあまりにも尊い犠牲によって買い取られ、与えられたものです。その上で選択できる状態が自由でした。この自由を再びサタンに易々と明け渡してよいものでしょうか。
 
 神様は人を縛りご自分に隷属させることがおできならないので、神に代わって使徒パウロが私たちに16節の「御霊によって歩みなさい」と強く薦めているのです。この御言葉は単に聖霊の内住というだけではない、聖霊のバプテスマや新生を受け、神の霊に満たされた経験のあるクリスチャン(ガラテヤ人やそのようなクリスチャン)に対して語られています。聖霊のバプテスマが未だの人にとっては、先ずそれを受けることが先決です。本来、聖霊の実を実らせるべき選ばれた人々に対して、「怠りなく常に聖霊に満たされ続けなさい」と説いているのです。
 
 今日のキリスト教会や、うっかりすると私たちの群れの中においてでさえも、肉のクリスチャンが存在し、ねたみや分派心が存在し、愛のない行いを見ることがあります。ガラテヤの諸教会もパウロの輝かしい異邦人伝道の初穂でした。しかしサタンも必死に挽回をはかっており、その幾分かは成功しているようです。霊の世界においては中立地帯という場所はありません。あると思われていたら、そこは肉であり、サタンの領域です。サタンや悪霊側に対し、神様と神様に従う陣営しか存在しないのです。みなさんはどちらの側に立っておられるのでしょうか。

2016年5月22日 (日)

戦いの武器

コリントⅡ 10章4節
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 クリスチャンの中には、突然神が自分だけに語りかけてくださるとか、超不思議な出来事をおねだりする、特別な体験を中心に信仰を求めようとする方がいます。確かにいやしとか、不思議なことがこの群れではあり、神の栄光が現されています。しかし思い間違いをしてはなりません。そこには土台があるのです。徹底した聖書の学びと心からの祈りという土台の上にそれらは現されているのです。特に吟味の土台としての聖書を一番とせずに、不思議を求めることは大変危険です。
 孤児院で有名なジョージ・ミューラーは言いました。「霊的生活の活力は、生活と思想において聖書が占める位置に比例する。私はこのことを54年の経験からまじめに申し述べる」と。ルカ伝の16章31ではアブラハムが金持ちに言います。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と。不思議や奇跡を求めて、神の言葉である聖書に耳を傾けないのであれば、その業は空しいのです。
 私が最近、霊的なことに対して「神の言葉である聖書の御言葉を用いて」対応するようにと言うことを示されています。
 少し前でしたが、映画「ヤコブへの手紙」を観ました。引退した盲目のヤコブ牧師のもとへ、いろいろな悩みを相談する手紙が毎日来ます。ヤコブ牧師はなんと聖書を全部覚えており、返事は聖書の御言葉の一節の適用が中心でした。自分の考えや思いではなく、御言葉オンリーでした。当初私は、それで回答になっているんだろうか、と疑問に思ったものです。しかし後になってこれが、私に大きな手がかりを与えてくれました。
 考えてみれば、イエスさまが公生涯に入られる前、荒野で断食され、その後サタンから試みを受けられました。サタンからの誘惑に対し、イエス・キリスト様は自分の言葉ではなく、御言葉で答えらました。最初の答えが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」です。神ですら自分の言葉では答えられないのに、私たち、人に過ぎないものが、自分の言葉、つまり肉の言葉でサタンに対してよいものでしょうか。エペソ書にも、私たちが攻撃できる唯一のものは神の言葉という剣だとあります。ですから私たちは御言葉を自在に繰り出せるよう訓練し、御言葉で戦わなければならないのです。
 御言葉は啓示によって記されました。霊によって書かれたものは、霊によって読まねばなりません。各自の聖書の読み解き、心への刻みはお住まいの聖霊様によってなされなければなりません。
 イエス様は御言葉を用いて伝道されました。また御言葉で悪霊どもを追い出され、病気の人をみないやされました(マタイ8章16)。ヤコブ書1章21で「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあり、1ヨハネの2章14では「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」とあるのです。私たちは御言葉によって救われ、御言葉によってこの世の霊である悪霊に打ち勝つ存在です。

2016年5月15日 (日)

神を喜ばせる

ロ-マ 8章8節
肉にある者は神を喜ばせることができません。
 クリスチャンの目標とは、私の場合、神に喜んでいただけることです。この聖書箇所から逆に言えば「聖霊に満たされ、聞き従って歩む者は、神に喜んでいただける」と言う意味になります。
 南アフリカの偉大な伝道者アンドリュー・マーレーという人は、人間を①生まれたままの人、②クリスチャンですが、肉の力に左右される人、③聖霊が全き主権をもっているクリスチャンと、三種類に分けました。クリスチャンであるならば②か③のどちらかと言うことになります。ただ②については、本人だけの責任というだけでなく、教会の責任も相当あることでしょう。
 
 キリストの体である教会が、聖霊に満たされ、聖霊の支配が徹底して行くためには、世俗的な考え、世の常識で教会が営まれてはなりません。この点で会衆制とか長老制という多くの教会に見られる、一見民主的な運営制度というものは、モーセに幾度も立ち向かったイスラエルの民、コラの子孫のように、世的であっても神的ではありません。牧師が教会(または教会員)におもねることなく、神から召された使命を全うするために、最大の責任を与えられていなければなりません。民主主義にそぐわない制度かもしれませんが、牧師といえども実は神に聞き従う存在でしかありません。聖霊のバプテスマを受け、神に聞ける教会員であれば、多くの場合牧師と一致できるはずですし、たとえ理解できなかったにせよ、反旗を翻すことなく、体の部分同士、仕え合う存在となります。
 
 さてどうしたら聖霊に満たされ、全き主権を持つ…いわば聖霊に支配されるクリスチャンになれるのでしょうか。それは自分の体と心の主権を神に明け渡す…それも 100%完全にです。これは明け渡さないと受け取ることができない性質のもので、併存はできません。コップに汚れた水が少しでも残っていたら、どんなに清い水を入れても飲めないことに変わりが無いようなものです。神とサタンとは決して同居ができません。あなたのたましいは、神様に完全に捧げきっておられるでしょうか。
 
 イエス・キリストはすべての弟子に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て来なさい」と仰いました。御霊はそのような自分を惜しまない、従順な者にだけ与えられます。従順して自分自身の肉体さえも死に渡します。その後に神がくださる栄光の体に比べれば取るに足りないものだからです。
 
 聖霊に満たされると、次の点が大きく変わってきます。まず、罪に打ち勝つ力、罪に対する勝利が与えられ実感するようになります。欲望や妬みや不安、不満の心が湧かなくなります。次に奉仕における力、例えば伝道において福音を語っていると、考えられない救いが起こってきたりします。また肉的な時に分からなかった聖書が、聖霊の力、手ほどきによって驚くべき理解が与えられるようになります。これらが聖霊の満たしに伴う現れです。
 
 みなさん、聖霊に満たされ、歩むことによって、神である主にお褒めの言葉をいただきましょう

2016年5月 8日 (日)

神の時 Part2

ルカ 1章20節 
 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。
 このことばはザカリヤという祭司が神殿に入って香を焚こうとした際、突然神の使いのガブリエルが香壇の右側に現れ、高齢のザカリヤ夫婦に子ができると告げたのですが、そのことが信じられなかったザカリヤに語られた言葉です。
 
  神の計画というのは、おそろしく大きく緻密であって、人間にはあらかじめ理解することは、到底不可能です。何しろ心がける者が何億いようと、宇宙創世から、つい最近のアブラハム以降何千年かけようと、そのすべてを調整し妨害者サタンを打ち破り勝利し、自らの御栄光を現すことのおできになる方なのですから。またサタンにとってキリストの受難の死が勝ったと思った瞬間、まさにその瞬間逆転して神の決定的な勝利となったように、発想というか、想像もつかない知恵あるお方であります。
 
 それでは私たちはどうすればよいのでしょうか? そうです、私たちはこのような神に贖われ、買い取られたものとして神に属し、神が用いてくださるよう、忠実に、心を尽くして聞き従うのみです。通り良き管として。
 
 問題は聞き従えても、それを持続することです。サタンは人間の弱さについて当の人間本人よりも詳しく、よく知って心得ています。ですから人間に対し、絶妙なタイミングで疑いを抱かせ、つぶやきを吐かせます。仕上げは神の時にではなく、時を人間自身に支配させ、あきらめさせるのです。「時」と言うのは先週も申し上げましたように、神の絶対的な主権なのです。ご自身の計画達成のために、何千年も、何億人もののタイミングを見計らっておられる神は、実行する時の主権者であり、おそばに仕える天使達はもちろん、キリストでさえも知ることはできないほどなのです。それは買い取られたとは言っても罪深い一人間が、神の主権を奪い決定する、これを不信仰と言わなくて何でしょう。
 
 私もかつて試練の時、離婚届けを市役所にもらいに行ったことがあります。しかし祈ると「忍耐しなさい。離婚は後にあなたを用いる時に、サタンの攻撃の引っかけ傷となってしまうからのだから」と諭され、思いとどまりました。本当に忍耐して、時を待ったことで今日のすばらしい祝福となりました。神の恵みを受けるためには、聞き従いと共に、忍耐が必須なのです。
 
 ですから「時」に関しては、信仰が試されていると言ってよいと思います。みなさん、この試験に全員が力を合わせて、支え合って合格をめざしましょう。そのように祈りましょう。

2016年5月 1日 (日)

神の時

ローマ 9章33節 
見よ、わたしはシオンにつまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望することがない
 
この 20世紀が終わろうと言う頃の世紀末に、世界が終わるという預言がありました。信じた人々は財産をみな売り、ある山に集結して新しい世界を待ちましたが、ただ日付が一日変わっただけでした。この群れでは、預言で時の特定を聞けば、即座にそれは偽預言だと判別します。時とは下記の聖書にあるように、神の主権であり、キリストでさえ知らされないものだからなのです。
 
この天地は滅び去ります。-中略- ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも 知りません。天の御使いたちも子も 知りません。ただ父だけが知っておられます。マタイ 24:35-36
 
まず私たち人間と神さまとの関係ですが、父とその子とされた存在、贖われて買い取られた存在、しもべなどが語られていますが、これには段階があります。まず私たちは罪人で地獄へ落ちるべき存在でした。しかしイエス・キリストを信じ、罪が赦される者となりました。十字架の身代わりをもって買い取られた(贖われた)存在なのです。ですから信じた者は神の所有へと移転した神のもの、神の奴隷なのです。ですからこの世で命ある間は、主人たる神の御心を忠実に行なわなければなりません。どれだけ忠実にやったか、喜んで全うしたか、それが天でのお褒めにあずかる基準となります。そして私たちが天に帰って行った時には、私たちは神の子となります。それは幼虫からさなぎへ、そして成虫になる昆虫の生態のようです。
 
そういうわけで今は、神の僕として忠実に聞き従わなければならない時代です。するとどうしますか? 御心を知りたいとおもうでしょう。しかしそれが聞こえない人、奉仕をし、毎日でボーションを捧げ、聖書を読んでください。必ず心に響く御言葉がありますので、祈りの内に御言葉を聞いて行う者になりましょう。
 そのようにキリストに信頼する者は、願いや御心の成就を自分の時で決めない。神の時に委ねているので、忍耐する。つまり神のご都合、計画で行われることに従う。聞き従いとか従順するとは、神が為される時を待つことでもあるのです。それゆえ神の成就を見る人となります。
 
 みなさん自分を主に明け渡し、熱心に聞き、徹底的に神の時が来るまで従い続ける信仰を求めましょう。みなさん、忍耐を主に祈り求めましょう。これは信仰を求めることとほぼ同一です。神を信頼する者は、「時」が待てる者、時はそのバロメーターなのです。

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