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2016年6月

2016年6月26日 (日)

み言葉の力

ヤコブ  1章22節
  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
 
 私たちの群れでは本格的なリバイバルは患難時代とともに来ることを知っているので、本日のみ言葉「もし彼を否んだら、彼もまた私たちを否まれる」を、不安と恐れで受け取られる兄弟姉妹も居られると思います。私はその前段階として先ず、「聖霊に満たされる、満たされ続ける」必要があること、そしてこれは御心なので必ず成就することである上、過度な心配をしてはいけない申し上げています。
 
実際、この直前の 21節にある「彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」ということが、このことを裏付けているのです。このみ言葉は「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることになる」(ロマ 6:18)、「もし御霊によって、体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ 8:13)にある通り、ご聖霊さまによる、全的な支配が己の上に行われること、それはとりもなおさず、聖霊の満たしが日々その人において現されていくということです。私たちは実際、聖霊様が単に内住されるているだけでなく、日々の生活における自分の感情や心の有り様を支配しておられなければなりません。勘違いしてはいけません。聖霊様に実際に己がコントロールされていてはじめて、「主」は主なのであります。ですから心はいつも感謝であふれており、顔は喜びで輝いているのです。それができているかいないかが、まず問われるべきであります。
 
もう一つ付け加えるなら、たとえできていなくても、神のあわれみ深い御性質を思い浮かべましょう。弟子の筆頭ペテロは三年半も主と生活し、十字架の直前には「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったペテロをも主は信仰がなくらならないようにあらかじめ祈られ、実際起こってからも、そのことを完全に赦されました。神は私たち一人一人の弱さをすべてをご存知であられ、かつ予知しておられます。神に背を向けない限り、私たちは見捨てられることはありません。そのみ言葉をも完全に信じてください。
 
 み言葉は私たちにとって唯一の武器、剣なのです。ですから本日示されて私は、覚えて信仰を堅くする必須のみ言葉、また霊的な戦いの武器としてのみ言葉集を作りました。昔、武士はどんな時でも刀を外すことはありませんでした。私たちも聖霊に満たされ続けるため、日々許される霊的な戦いの戦士として、み言葉の武器を常に暗記し、用いていきましょう。

2016年6月19日 (日)

神にあわれまれているうちに

ローマ 9章15節
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。

 我が国で最も成功した武将と言えば、徳川家康でしょう。その家康が生涯肌身離さず持っていた一枚の絵、それがご覧の家康しかみ像です。Photo_2 常人なら失敗は、少しでも速く忘れて思い出したくないことでしょう。しかし家康の成功は、謙虚に自分の失敗を教訓とし、戒めたことだったのです。

 イスラエルの人物中、もっとも祝福された人物はダビデです。イスラエル史上最大の領土を得て、子々孫々に至るまで王座を神に約束されました。ではダビデという人物が完璧な人であったかというと、逆に失敗の多い人でもありました。バテ・シェバのこと、民の数を数えたこと、子育ての父親として不甲斐ない父であったこと・・・・などです。今日はさらにその上塗りとして、致命的とも言えるミスを挙げましょう。それはダビデがサウル王から逃れるために、亡命先としてペリシテのガテの王アキシュに頼ったことです。
 
 この時のダビデはサウル王に追われ、イスラエル内では自分の命が守れないと判断したのです。この時、明らかにダビデは神様の加護よりも サウル王を恐れていました。
 しかしこれは窮地に陥ったこととは言え、みすみす仇敵の手に陥る愚か極まりない選択でした。ペリシテの英雄ゴリアテを倒し、サウルは千、ダビデは万と謳われたダビデをそのままにするはずがないからです。その絶体絶命の危機が、詩編34や56に歌として「捕らえられ、一日中殺されそうになった」と自ら綴っています。しかしこのピンチの結果は、単なる追放で終わるのですが、ダビデはこれがハッキリと「神の護り」であることを知っていたのです。そしてダビデはこの最大の失敗を徹底的に悔い改めるため、詩編にし、幾度も幾度も歌い、歌わせ自分に言い聞かました。
 
 ですからみなさん、過ちや失敗にも神の護りがあるのです。大切なことは悔い改め、そこから学び、神により頼み、堅く信仰に立つことです。失敗を生かすことです。試練はこのためにあるのかも知れません。失敗を以後二度と繰り返さないよう絵にし、歌にし、生かすならば、神に喜ばれ、ますます祝福される基となるのです。あなたの人生での失敗を益に変えましょう。それは失敗や過ちを記憶から消し去り、忘れようとするのではなく、逆です、大いに明らかにして学び、護ってくださった神に栄光を帰すのです。神はあわれもうとする者をあわれみ、恵もうとされる者を恵まれるのです。神の祝福の分かれ目は、自分を守るのか、それとも守らず神に目を向け、栄光を帰すかなのです。

2016年6月12日 (日)

復活

コリント人への手紙Ⅰ 15章17節
 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
                          
 まだ公開中の映画「復活」は、イエス・キリストの十字架上の死と埋葬から始まります。その墓から三日目の朝になって、墓が空になったことから映画の展開が始まります。十字架につけた祭司長たちやローマ側は、その遺体が復活ではなく、弟子たちに盗まれたことにしようとします。そのためキリストの遺体を、ローマ軍の威信にかけ、あらゆる手段を尽くして探すのですが、事実でないものはあるはずがありません。窮地に立たされた責任者であるローマ軍司令官のクラヴィアスは、捜索を通して復活の事実に迫り、ついに実際にキリストに出会います。このクラヴィアスは作者の創作ですが、彼以外の人物はみな、聖書に忠実に描かれているのも特徴です。
 
 映画は三つの結果を描いています。一つはキリストの遺体、遺骨が結局は見つからなかったこと。二つ目は番兵たちの証言や祭司長たちがどれほど虚偽を言い立てようと、復活したキリストに会った多くの人々の事実を打ち消すことはできません。三つ目はキリストの復活が血肉の体ではなく、御霊の体であることを明確にしていることです。

 さてキリスト教の根本である復活は、案外これまでは十字架ほど重視されて来なかった傾向があったと私は思います。その理由として、よみがえることからして理解し難いことなのに、血肉ではなく、御霊の体としての理解が一層困難であったと推察されます。しかし本日の聖書箇所にある通り、もし「キリストが(御霊の体で)よみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今なお自分の罪の中にいる」のです。本日は復活がどれほど大切なことなのか、皆さんと共に学んで行きたいと思います。
 
 十字架は罪の赦しと贖いの業です。ならば復活は死を打ち滅ぼし、永遠のいのちの保証です。御霊の体は朽ちず、その体を持つ者は、永遠の霊が住む実際の体、言わば天上の体です。キョンシーやふわふわした実体のない霊だけの体ではありません。食べることも瞬間移動することもできる実体のある体です。これがもし天国に行けなかった人の場合、滅びることのない囚われた体を通して、永遠に苦しみを受け続けることになります。御霊の体は血肉の体より強く、朽ちない不死の体であり、天的で自由であり、喜びと栄光の体です。
 
 クリスチャンが御霊の体を与えられるチャンスは、聖書で見る限り三回あります。特に最初の空中再臨では、先の聖徒たちが先ずよみがえり、次に携挙されたクリスチャンたちが生きながら御霊の体に変えられます。御霊の体になるには終末の神の時があり、順番があります。私たちは、携挙されるよう熱心に祈り、御霊の証印を手放さずに待ちましょう。

2016年6月 5日 (日)

まったき愛

ヨハネ 12章25節
 自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って、永遠のいのちに至るのです。
 神学校の授業で、ある女子校で「地上で誰か一人でも自分を本当に愛してくれる人がいたらその人は幸せです。しかし孤児院の子どもたちにはいなかったのです」と話したら、涙を出す生徒がいたとのことでした。この日本で、モノは満たされていても、誰からも愛されていない、そのような精神的な孤児の子どもが結構いるのではないかな、と思わさせられました。
 
 しかしまた、逆に過度に依存してしまって、愛してくれる人がこの世を去ってしまった瞬間から、生きていく目標も気力も失ってしまって腑抜けのようになる、そんな方もいるのです。これも真実の愛、まことの愛というものが子どもに伝わっていなかったのではないかと、私は思うのです。ではまことの愛とは、いったいどいういうものでしょうか?。どなたかお答えになってくださるでしょうか。それは、人間には答えることも見せることも難しいものに思えます。しかしここに、私はまことの愛とはどういうものかを、はっきりとお見せできる恵みをいただいております。それは、この世に生まれる前からお一人お一人に注がれていた、永遠の「神の愛」以外にはございません。
 
 職場の人間関係での上司とか同僚のような、避けることや逃げることができない中で、何故か自分を憎悪し続けてくる相手に対し、私たちはどう対処するればよいのでしょうか? 以前「半沢直樹」というテレビドラマで「やられたらやり返す。倍返しだ!」というセリフが流行りました。憎しみを力にしてさらに憎み返し、憎しみを思いっきり相手に叩きつける痛快さがあったようでした。しかしそれは痛快ではない、見ていて背筋がぞっとするようなおそろしいサタンの支配を感じました。いわば相手だけでなく、仕返することが悪霊との契約、その虜になって可能に思えました。
 
 では聖霊に満たされ、新生したクリスチャンであればどうすればよいのでしょうか。憎しみを憎しみで仕返しできたからと言って、いったい何の得があるでしょうか。一番大切な自分自身をサタンに売り渡し、最大の損失、滅びる世界に捨て去ることほど愚かなことではありませんか。聖書のルカ伝ではイエスさまは何度も言っています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」と。
 
 ですから私たちがそのような時にするのは、神がこのことを許されたのには必ず大きな最善の計画があるのですから、感謝します。そして憎しみではなく、聖書の通りに、憎んで来る相手を、逆に愛せるように祈ることです。愛は神から来ます。自分がどれほど神に赦されて来たことかを思い出すなら、相手の憎悪を受け入れ許すことぐらい、それほど大したことではないのです。さらに自分の貧弱の愛ではなく、神からの愛をもって、心から相手を愛することができるよう、熱心に祈るようにいたしましょう。御心ですから、神は必ず私たちの心を取り扱ってくださり、憎しみ怒りにではなく、なんと愛の心に変えてくださるのです。

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