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2016年6月 5日 (日)

まったき愛

ヨハネ 12章25節
 自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って、永遠のいのちに至るのです。
 神学校の授業で、ある女子校で「地上で誰か一人でも自分を本当に愛してくれる人がいたらその人は幸せです。しかし孤児院の子どもたちにはいなかったのです」と話したら、涙を出す生徒がいたとのことでした。この日本で、モノは満たされていても、誰からも愛されていない、そのような精神的な孤児の子どもが結構いるのではないかな、と思わさせられました。
 
 しかしまた、逆に過度に依存してしまって、愛してくれる人がこの世を去ってしまった瞬間から、生きていく目標も気力も失ってしまって腑抜けのようになる、そんな方もいるのです。これも真実の愛、まことの愛というものが子どもに伝わっていなかったのではないかと、私は思うのです。ではまことの愛とは、いったいどいういうものでしょうか?。どなたかお答えになってくださるでしょうか。それは、人間には答えることも見せることも難しいものに思えます。しかしここに、私はまことの愛とはどういうものかを、はっきりとお見せできる恵みをいただいております。それは、この世に生まれる前からお一人お一人に注がれていた、永遠の「神の愛」以外にはございません。
 
 職場の人間関係での上司とか同僚のような、避けることや逃げることができない中で、何故か自分を憎悪し続けてくる相手に対し、私たちはどう対処するればよいのでしょうか? 以前「半沢直樹」というテレビドラマで「やられたらやり返す。倍返しだ!」というセリフが流行りました。憎しみを力にしてさらに憎み返し、憎しみを思いっきり相手に叩きつける痛快さがあったようでした。しかしそれは痛快ではない、見ていて背筋がぞっとするようなおそろしいサタンの支配を感じました。いわば相手だけでなく、仕返することが悪霊との契約、その虜になって可能に思えました。
 
 では聖霊に満たされ、新生したクリスチャンであればどうすればよいのでしょうか。憎しみを憎しみで仕返しできたからと言って、いったい何の得があるでしょうか。一番大切な自分自身をサタンに売り渡し、最大の損失、滅びる世界に捨て去ることほど愚かなことではありませんか。聖書のルカ伝ではイエスさまは何度も言っています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」と。
 
 ですから私たちがそのような時にするのは、神がこのことを許されたのには必ず大きな最善の計画があるのですから、感謝します。そして憎しみではなく、聖書の通りに、憎んで来る相手を、逆に愛せるように祈ることです。愛は神から来ます。自分がどれほど神に赦されて来たことかを思い出すなら、相手の憎悪を受け入れ許すことぐらい、それほど大したことではないのです。さらに自分の貧弱の愛ではなく、神からの愛をもって、心から相手を愛することができるよう、熱心に祈るようにいたしましょう。御心ですから、神は必ず私たちの心を取り扱ってくださり、憎しみ怒りにではなく、なんと愛の心に変えてくださるのです。

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