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2016年7月

2016年7月31日 (日)

受けたと信じる信仰 (まとめ編)

 ヨハネ  1章14~15節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
 
 今回のパトモス派遣、ある教会ではトルコ派遣と名前が変わってしまったように、最終日のイスタンブール空港での出来事は鮮烈でした。白馬ではこの事件に関して「明確な終末の示し」、「『こういう時代がやがて来るんだぞ』と頭をガーンと叩かれたような感じ」などと述べられていました。私も同じ思いです。ただ私に何度も示されていたは福音書の一節、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」のみ言葉でした。
 
 イスラム圏にあってトルコは非常に例外的な国でした。アラブの盟主エジプトよりも強大な国であり、ヨーロッパに近くNATO加盟国です。部族中心のイスラム世界にあって、政教分離の近代的かつ民主的な国でした。親日国としても有名です。それがこの度のことで、イスラム化の度合いを強め、何の法的根拠もなく異なる考えの人々を追放しました。この地域の他の国々と変わらない国に変わりつつあります。中東の世界が一層混沌としてくることでしょう。それは黙示録9章の二億の軍が出てくる「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ」の舞台が整えられて来たと考えられないでしょうか。
 
 七年の患難時代の世界中が大混乱になる中、リバイバルが起こります。今世界はテロ、クーデター、ポピュリズムの台頭などどう見ても尋常でないことが起こっています。これがさらに気候変動や飢饉などで、さらに不安定化して行きます。それは戦争、飢餓、パンデミックと呼ばれる全世界的な疫病などを招き、人々は現世への希望を失い、死を願うようになります。このような中にあって、クリスチャンは同じような苦難を受けてはいますが感謝しており、喜んでいて輝いており、多くの人々を照らす光りとなっていきます。
 
 この世にしか希望が無く、死んだらお終いだと思っている多くの人々にとって、天国に希望を持つクリスチャンは全く別な存在です。クリスチャンにとって天国は素晴らしい世界であり、そこで私たちは滅ぶべき血肉の体から御霊の体という真の体、滅ぶことのない自由な体を与えられます。クリスチャンは天に国籍を持つ天国人なのです。この世は私たちにとって、ふさわしいところではないのです。このようなクリスチャンの証しによって、人々ははじめて悔い改め、神を信じるリバイバルが起こされていくのです。
 
 このことを保証するものが二つあります。聖書と聖霊です。ただしクリスチャンがその時、天国を期待し、現実にそうなると受け取っていなければ話になりません。人々を動かす力は私たちにありません。弱い私たちであっても、この受けた信じる信仰の上に神の力は働き、私たちの弱さを通して神の圧倒的な力が働くのです。みなさん、己の今の姿を見て判断しないように。それは不信仰です。ただ神を仰ぎ、神の言葉と計画の上に立ち続けましょう。
 

2016年7月24日 (日)

受けたと信じる信仰

Ⅰヨハネ  5章15節
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
 
 聞き従いの土台とは何でしょうか。聞くことは神から聞くということですから、まず神の声が聞ける、分かるということが前提でしょう。
 私たちの群れでは、聖霊のバプテスマを受けていることが前提になっています。しかしこれは聖霊の満たしの最初であって、スタート台に立ったに過ぎません。ところがもうこれで大丈夫と安心して、スタート台に留まり続けている方がいるかもしれません。また聖霊のバプテスマを受けたかどうかが判らず、霊的に不安定な信仰生活を続けておられる方がいるかもしれません。ですから「聞く」という段階もまずしっかり押さえる必要があります。
 
 ではどのようにして神の声を聞くのでしょうか。私はシンプルなたった一つの方法しか知りません。それは「祈る」こと、それだけです。この祈り、ちょっとやそっとの祈りではなく、徹底的に祈ることです。多くの方はみな祈りの大切さは認識されても、しばらくすると挫折されます。私もなりかけました。一人「ヤルゾ!」と心定めて祈ろうとしても、1時間すら祈れず、眠くなるか、集中力を失って空しくなってしまうのでした。
 祈ることの大切さに気づいたのは良かったのですが、自分の力でやろうとして失敗したのです。祈りには以下のように正しい神との関わり方、順序、方法というものがあります。
 
① 神の前に正しい在り方で祈る〜心に一切の憎しみ・悲しみ・心の傷を取り扱われて祈
る。 許せない人、ちょっと避けたいと思うような人が心の片隅にでもあるなら、聖いとのお交わりに壁があるようなもので、十分なお交わりはできません。神は「あなたの敵を愛しなさい」と命じておられるのですから。
 
② へりくだった謙遜を慕い、心から悔い改める~神に自分の全てを捧げる心をもって、いっさいの肉的な自分を取り扱っていただきましょう。伴侶であろうと、家族であろうと、神以上に愛し、大切なあってはいけません。
 
③ 最後に神様との自分の関係を再点検します~神は「主」、自分は「僕」。自分の願い事ばかりを祈ってはいないでしょうか?それは主に駄々をこね、困らせることになってはいないでしょうか?主は最善のことしかおできになれません。自分の良かれと思うことより、主の御心が最善であり、優先します。ですから常に「主の御心を求め、聞き従わせてください」と願いつつ祈るのです。主人の指示をずっと忍耐して待つのはしもべとして当然です。勝手に行動したりはしません。それは待つという姿勢の中に、主への信頼が現されているからです。
要するに受けたと信じるポイントは、主を主として信頼する祈り、その交わりです。雑踏の中においても家族の声は鋭く聞き分けられるように、主と親しく交わっている者は主をよく知っており、間違うことはほとんどありません。「聞く」ということは、ラッパの音のように突然語られたりすることは少なく、ほとんどは祈りの中から聞き、聞いたことを即座に確信する事であると言えます。    ケパ

2016年7月18日 (月)

7月17日のメッセージ

このブログをご覧の皆様
 
7月17日の礼拝は、ケパ牧師夫妻が参加しました派遣チームの帰国時、ギリシャからトルコのイスタンブール空港でトランジット中、突然の軍事クーデター事件に遭遇しました。
空港をめぐって双方の戦闘状態が想定されたため、空港そのものが全面閉鎖となり、丸一日間帰国不能となりました。
イスタンブール空港で単に足止めされただけでなく、銃声などが響く危険な中、外部との連絡もままならない状態で過ごしていました。
 
 
このような状態でしたので、残された教会員によって、教会の礼拝そのものは守られましたが、このブログに載せるべきメッセージは、断念せざるを得ませんでした。
Boudou_2
なお牧師夫妻はチーム全員共に日曜日の深夜には成田に無事帰国することができました。
 
以上のような理由で、今週17日のケパメッセージは 欠号とさせていただきます。
 
 (写真は国際線コンコースに入り込んで、シュプレヒコールをあげる民衆)

2016年7月10日 (日)

パトモス主日礼拝

マルコ 11章23節   (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師) 
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
※ このメッセージはヨハネの洞窟横松林の中で、開かれた主日礼拝の要約です。
 
殉教事件の真相という小冊子を出しましたが、これはフィリピンのトランプと言われるドュトルテ大統領の暴言が、オーストラリアとの国際問題になっているタイミングで主が出されたと言えます。カンボジアの孤児院から9名の孤児が来日できたりするなど、あり得ないことが次々と現実のものになっています。と同時に、非常に先が見えない時代、困難が予測される時代に入ってきました。そのことは皆さんも共感してくださると思います。
 
困難な時代が来た・・・・それは同時にリバイバルの時代が本格化しつつあるということであり、霊的な戦いが許され、主の十字架である私たちはそれを負っていくということでもあります。ただし、神の助けを全面的に受けなければ、それらは到底負うことはできません。ですからこれから私たちが為さなければならない一番の為すべきこと、神の助けを受けるための備えです。
 
先ず・・・・神の言葉の位置づけがリバイバルの働きに非常に大きな影響を与えます。神の言葉を「受けた」と信じなければ、神の力、実質はその人に現れないのです。例えば、ヨハネ3:16での神の愛は、信じ受け入れなければ神の愛はその人に現れません。ロマ10:10「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のみ言葉を信じなければ、いつまで経っても、その人は罪の意識の中に留まり続け、救われません。この信じ受け入れることは、「すでに受けたと信じる」ことです。受けたと信じる、これが信仰であり、そうすればその通りになるのです。
 
次に、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」ですが、「何でも」の前に「み心ならば何でも」という条件がつきます。ですからここでも聖書の位置づけが重要なのです。聖書のみ言葉は疑いようもない確実なものです。リバイバルの土台、備えとして、み言葉を確かに「すでに受けたと信じ」ているかどうかが、リバイバルにおける大きな差・・・・用いられるかどうかの差となることでしょう。  (Capha)

2016年7月 3日 (日)

聖書の恵み

Ⅱペテロ 1章20~21節
 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
 1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
 
 昨今ダッカやイスタンブールなど、 ISのテロ攻撃が激しさを増しています。アルカイダや IS、これらイスラム過激派の自爆攻撃は数十年前に出た異教徒へのテロをジハード(聖戦)とする理論とそれを追認したファトワー(高位のイスラム法学者による勧告)が背景にあります。自爆したテロリストは天国で目が覚めると思っているようですが、どう見てもそこは地獄の業火のただ中でありましょう。ですから本当の犠牲者は彼ら実行犯かも知れません。そういう意味でテロに宗教的な解釈を施し、教えた指導者の罪とは、実に恐ろしいもがあります。この誤った教えを健全なイスラム自身の手で正すこと、それがイスラム過激派の問題を解決することになると私は思います。
 
 これが聖書を中心としたプロテスタントであったなら、聖書という絶対的な規範があります。神ご自身が書かれた聖書は難解かもしれませんが、曖昧さがありません。また聖書は自分の考え、私的な解釈を施してはなりません。その例をマタイ22章を見ていきましょう。イエス様に論争を挑んだパリサイ人が論破され、次はサドカイ人の挑戦です。復活を信じないサドカイ人にとって、もしかしてこの七人の兄弟と結婚した兄嫁のたとえ話は、パリサイ人を黙らせる決め手であったかも知れません。
 聖書は誤りなき神の言葉です。神であるイエス様はサドカイ人の誤りを「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだ」と一喝されました。復活の朽ちない体は、つまり御霊の体は滅びることがないので、男女である必要はなく、夫とか妻の考えが無用であると語られたのです。
 
 さらに「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ 22:32)と語られました。これは彼らが死んでいないと受け取る方もおられますが、そうではありません。神が死んだ者たちを復活させられて、彼らがまた生きるということを明言されたのです。「神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」とは、神に属する者については、今の体が滅ぶが、しかし彼らはもっと良い体で生きて復活すると言われたのです。これには次のみ言葉が当てはまることでしょう。
 
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、 死んでも 生きるのです。」(ヨハ 11:25)
 聖書は先に自分の考えがあって、それに当てはめるような私的な解釈をしてはなりません。分からない所は他の聖書箇所を参照したり、祈り、聖霊に導かれてください。それには時もかかるでしょう。しかし神は最善のタイミングで必ず答えてくださいます。なぜなら聖書を書かれた執筆者、神様にお聞きするのが確かな方法だからです。

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