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2016年7月10日 (日)

パトモス主日礼拝

マルコ 11章23節   (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師) 
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
※ このメッセージはヨハネの洞窟横松林の中で、開かれた主日礼拝の要約です。
 
殉教事件の真相という小冊子を出しましたが、これはフィリピンのトランプと言われるドュトルテ大統領の暴言が、オーストラリアとの国際問題になっているタイミングで主が出されたと言えます。カンボジアの孤児院から9名の孤児が来日できたりするなど、あり得ないことが次々と現実のものになっています。と同時に、非常に先が見えない時代、困難が予測される時代に入ってきました。そのことは皆さんも共感してくださると思います。
 
困難な時代が来た・・・・それは同時にリバイバルの時代が本格化しつつあるということであり、霊的な戦いが許され、主の十字架である私たちはそれを負っていくということでもあります。ただし、神の助けを全面的に受けなければ、それらは到底負うことはできません。ですからこれから私たちが為さなければならない一番の為すべきこと、神の助けを受けるための備えです。
 
先ず・・・・神の言葉の位置づけがリバイバルの働きに非常に大きな影響を与えます。神の言葉を「受けた」と信じなければ、神の力、実質はその人に現れないのです。例えば、ヨハネ3:16での神の愛は、信じ受け入れなければ神の愛はその人に現れません。ロマ10:10「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のみ言葉を信じなければ、いつまで経っても、その人は罪の意識の中に留まり続け、救われません。この信じ受け入れることは、「すでに受けたと信じる」ことです。受けたと信じる、これが信仰であり、そうすればその通りになるのです。
 
次に、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」ですが、「何でも」の前に「み心ならば何でも」という条件がつきます。ですからここでも聖書の位置づけが重要なのです。聖書のみ言葉は疑いようもない確実なものです。リバイバルの土台、備えとして、み言葉を確かに「すでに受けたと信じ」ているかどうかが、リバイバルにおける大きな差・・・・用いられるかどうかの差となることでしょう。  (Capha)

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