自分の胸をたたいて
† ルカ 18章10~14節
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
今の私たちの血肉の体と命には、創造の目的があり、聖書が答えています。永遠のいのちを得る為です。この永遠の命は、御霊の体として存在し、フワフワとおばけや霊のままではありません。復活のキリストと同じです。
つまり今の老化し、滅ぶ体から滅ばない永遠の体へ。その体は食べ・眠って・運動を普段にしなければならない今の制約から解放されています。壁や遠方などの物理的な制約もありません。滅ばないので男女の性は不要ですし、生存や所属などの社会的欲求からも解放されています。血肉のごく短い命のある中での選択が永遠の行方が定めるのです。
さて、本題のパリサイ人と取税人の祈りに話を戻したいと思います。二人とも天国に行きたい人たちです。パリサイ人は社会的には上位の暮らしをしており、宗教的に熱心で律法を忠実に守り、人々から尊敬され、まっ先に天国へ行ける人だと思われていました。
取税人は今の税務署の職員とは全く異なります。ローマへの税をプラスαして私服を肥やす、憎きローマの占領支配、そのお先棒を担いだ売国奴であって、道徳心のない罪人だと見られていました。全く対照的な二人でした。
しかし神の目は人と異なります。パリサイ人が取税人を見下したのに対し、その取税人は胸を叩いて罪を悔い、神のあわれみを求めて祈っていました。パリサイ人がどんなに律法を守って行いに励んでいたとしても、それは枝葉末節の部類であって、最も肝心な律法、愛を失い高ぶって裁いていたのは明白です。神はどんな罪人であろうとも、悔い改めてあわれみを求める者に目を留められます。これは聖書(マタ9:13等)にある通りです。神は愛だからです。
今の血肉の体があるのは、この間に私たちが永遠の命を求めるため、得るためです。そして得たのであれば、何よりも神の御心が行うことです。そのためには祈りの人でなければなりません。そのために主は十字架にかかり、罪を赦し、聖霊を私たちにくださいました。血肉の体を持っていたとしても、今や聖霊が私の人生の主なのですから、絶えず祈りによって聖霊様を心の王座にお迎えし、聞き従わなければなりません。さらに聖霊様は力ある方ですから、九つあるその賜物によって、御自身の計画を進めて行かれます。
つまり、血肉の体がある真のクリスチャンは、この世での神の働きを共にする者となります。神の愛を運ぶ器とさせられ、その栄光を現す存在となるのです。
つまり、血肉の体がある真のクリスチャンは、この世での神の働きを共にする者となります。神の愛を運ぶ器とさせられ、その栄光を現す存在となるのです。
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