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2016年9月

2016年9月25日 (日)

罪におおわれた人は幸いです

 詩篇32篇1節
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
 
 聖書の中には様々な人物が描かれていますが、どんな偉大な人物であっても、例外なく、みな失敗をし、それを余すところなく描いています。中でも最も偉大な人物が、実は最も罪を犯し失敗した人物だと言うのは、これは普通の事ではありません。ダビデがそうです。

 少年ダビデは羊飼いでしたので、この絵は自分の羊のためImg_jpg にはライオンすら恐れず、打ち殺していた絵です。ペリシテ軍の巨人戦士ゴリアテも、ダビデによってたった一発の石投げで倒されました。その時ダビデは  「この戦いは【主】の戦いだ。」(Ⅰサム17:47)と言っていますので、ダビデは子どもの時から、油注ぎによる神の特別な力があったことがわかります。

 またダビデは長い間、サウル王から逃げ回り、最後には外国にまで逃げました。その苦労も、サウル王が宿敵ペリシテ人によって殺されてから解放されました。時にダビデが四十歳の時でした。その後七年間のユダの王を経て、三十三年間、全イスラエルの王でした。
 このダビデ王の時代に、イスラエルは史上の最大の領地や勢力範囲を持ちます。その広さはユーフラテス川からエジプト川に当たる広大な地域であって、アブラハムに神が約束された大イスラエルそのものでした。ただダビデだけがこれを実現した人物だったのです。その恵みの家系はイエス・キリストまで続き、真に祝福された王の中の王というべきでしょう。
 
 しかしダビデは十戒という律法の中の律法の内、一つでも重罪ですが、五つも犯した人物です。隣人の妻を盗み、姦淫をし、忠実な部下たちを殺しました。本来ならば神に裁かれ、打たれてもおかしくない状況でしたが、刈り取りはあったものの、基本的には赦されて、祝福は揺らぐことがありませんでした。なぜでしょうか?そうです、ダビデが即座に悔い改めて、神に赦しを請うたからです。悔い改めて、すぐにごめんなさいを言う。これに勝る祝福は絶大なものがあるのです。
この世では王という何でもまかり通る地位についても、ダビデは神の前では高慢にならず、子どものごとく謝り、赦しを請うからでした。このことは、私たちがどのような失敗や間違いをしたとしても、心から悔い改めるなら、神は必ず赦してくださり、祝福が失われることがないことをあらわしています。
 
ですので、恐れることなく、いつまでも謙遜に、子どものごとく神に赦しを求める者であり続けましょう。天の御国に帰るその時まで。

2016年9月18日 (日)

あなたの神である主を愛せよ

 マタイ 22章27節
そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

イエス様にこの質問をした律法学者、今で言うとラビですが、ラビの中でもおそらくは最高位のラビだと思われます。いわばイエス様との勝負に一騎打ちの真打ちが登場したと私は見ます。そのラビが出した質問が、おそらくはその当時最も揉めていた問題、613にもふくれあがった律法を整理し、大切なものは何なのか、なのです。そしてこのラビ以降、関ヶ原の合戦の後のように、もう誰もイエス様に論争を挑む人が出るはずもありませんでした。
 
イエス様は心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、つまり全身全霊で神を愛しなさいと言っています。神よりも大切な存在がこの世にないのは当然ですが、人格的な交わりを最も中心に見られる神は、私たちの心を求められます。どれほど神が私たちを愛していてくださるかを知れば、それは当然であり、また、心から感謝することであります。神を愛し、隣人を愛すれば、すべての律法を満たしていると保証されているのです。
 
隣人、ここで私はひっかかります。神を愛する者は、隣人をも自分と同様に愛さなければならない。神を愛する気持ちはあっても、具体的な隣人への愛となると、愛に乏しい自分というものを自覚します。神への愛の具体的な現れ、真価が問われるわけです。そこで自分には愛が乏しい、ほとんど無い、それゆえこれも神に期待し求めることしかない、つまり愛のすべては神から来るという真理に気づくのです。もし幾ばくかの隣人愛に近い行為が自分にできたとしたなら、それは自分ではなく、ただ受けた神の愛を、少しだけ反射しているだけであるとわかるのです。この点について、限りなく人は神に対して謙遜になることができ、すべての栄光を神に帰すことができます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛する」、これはイエス様に自分のすべてをお捧げすることでもあります。聖霊によって自分が新しく生まれることでもあります。そのようになれば、自分で進んで捧げたくてしかたがなくなります。神の愛に喜んで捧げることができます。どうかまだの方は悔い改めて、この絶大な神の恵みに与れますように。祈り求めるならば、それはみ心ですから必ず与えられます。ただしそれは、最善である神の時があります。忍耐して祈り求めてください。

2016年9月11日 (日)

人はうわべを見るが、神は心を見る

1サムエル16章7節
しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが【主】は心を見る。」
 
 この聖句は、最後の士師で預言者のサムエルが、新しい王を選びにエッサイの家を訪れた時、神からあったことばです。エッサイの長子がサムエルの目にはふさわしく見えたのですが、主の目は違いました。私たちにはできない人の心を見ることが、神にはできるからです。これは神のご性質をも教えてくれています。
 
サムエルに限りません。私たち人間というものはよく間違いを犯します。見えることが正しいと信じているのですが、実はそれも多くの間違いを含んでいます。例えば私の髪です。この頭、「かなり灰色になって来たな」と思われませんか。実はその見方、間違っています。グレイの髪の毛なんて存在しないのです。床屋でよく見てもらうと白い毛か黒い毛か、そのどちらかなかったのです。グレイの毛はないのです。見ていても錯覚するくらいですから、人は神と異なって間違う存在なのです。
 
この宇宙、地球とこれに住むあらゆる生き物とその命。神は六日目の最後にご自分の姿に似せて人を造られ、この被造物全体を私たちにお委ねくださいました。人のために一切が造られたのです。このすべては神は人と交わり、人は神と交わるためなのです。神は人の心をお求めなのです。
 
私たちはどのようにして神と交わり、神を愛するようになるのでしょう。それは私たちの真実の姿を見、救ってもらわなければならない自分と神の愛が分かり、十字架によって罪から解放される時に、霊的な交わりが回復されて可能になります。その恵みは非常に大きく、血肉の命に優るものです。神は裁かれると恐れる人もいるようですが、それは神に背き続けた結果であって、自らが選び招いたものです。神は愛そのものなのです。
 
 神は唯一、全知全能のお方ですから、人の心を見られます。私たちが神に助けを呼び求める時に、神は助けずにはおられないお方です。神に助けを求める者は助けられ得です。変にプライドをもってしまい、神に求めない者は気の毒な結果になります。遠慮なく神に救いを、助けを求めましょう。その上で、助けられた感謝と喜びを神にささげましょう。これは重要な交わりでもあり、愛の基礎、土台です。ですから私たちは、助けを呼び求める時、神が必ず助けてくださることを前もって感謝しますし、たとえそれが自分の思った通りの結果ではなく、違ったとしても、神に祈ったものであれば、これが最善の結果であることを知っているのです。神を信じる者には、すべて神の許しの下にあります。神への信頼とは、間違いやすい自分の目よりも、神を信じているからです。 

2016年9月 4日 (日)

福音

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
       
 私たちはこの体がやがて滅ぶことを知っています。滅ぶものより、滅ばないものに価値があるのは当然です。ですからこの命は、後に来る永遠の霊のいのちと御霊の体を受けるためにあるのです。しかし現実は逆さまで、血肉の命だけしか知らず、その後の最も大切なことを失う人がほとんどなのです。
 
 福音は滅びから救われることのグッドニュースです。しかし自分中心の生き方をしたい人は、福音を受け入れることができません。しかしここにおられる神を信じる方は、どうして福音を受け入れられたのでしょうか。まことに失礼ですが、みなさんには、ある意味、世的には不遇であられて、あまりこの世に希望を持てない人たちではなかったのではないでしょうか。ですから皆さんは神の福音を受け入れられた。神に希望を持ち、十字架の救いを信じ、クリスチャンとなることができたのではありませんか。
 
 もしそうならば、皆さん、これまで「自分の人生にこれさえなかったなら」と思って来たことが、逆に自分を永遠の命に導いた「宝もの」なのではありませんか。つまり欠点や、人生の挫折、こころの傷があったればこそ、信仰を持ったのであれば、それを大切な宝として喜び、感謝しようではありませんか。
 
 宝物をこっそり隠す人もいるでしょうが、たいてい人はそれを自慢したいものです。ですからクリスチャンの自慢は、普通の人なら決して明らかにしない自分の欠点や愚かさです。人前での証に、これでもかというほど、自分の罪や愚かさをはっきり言う人がいますが、まさにこれぞクリスチャンの印です。
 
 さて私自身にも過去、大きな苦しみがありました。それで癒やしを求め、聖霊なる神様を求める絶大な恵みに預かったのです。もちろん感謝していました。ただし、口先だけで、心からとは言えなかったのです。そのことを先だって妻から指摘されまして、「そうだった、心からしていなかった」と悔い改めさせられました。たとえ今は口先だけでも、心から神に祈り求めるなら、これは御心ですから、必ずできるようにしていただけます。これが私たちの信仰です。
 
 皆さん、福音の恵みに預かった私たちは、光の子どもです。影などはないのです。無理に笑顔を作るのではなく、心ににじみ出てくる喜びが溢れるのです。それでこそ福音を伝える器としていただけることでしょう。祈り、求めましょう

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