神を愛する理由
† マルコ10章38節
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
この箇所はこの世の地位のように、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、神の国での最高の地位をイエス様に求めたところです。「一人をイエスの右に、もう一人を左に」。これを聞いて他の弟子たちが憤慨しないはずがありません。とは言ってもこの兄弟、告白通り兄は殉教し、弟は流刑という生涯を送りました。本日私が着目したいのは、兄弟の願いに対し、イエス様が「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われことです。
これには二つの意味があると思われます。一つはイエスの座の隣にという、その高さに見合う地上での過酷な試練を覚悟してのことか?ということ。兄弟の決心は確かに合格点でしたが、「御心に従うことが最善」の段階には至っていなかったのです。
もう一つには、地上の価値観で、つまり「上座が偉い」と天を推し量った誤りです。天ではこの世と反対に、仕えられる者より仕える者の方が高い地位を有するのだと主は諭されています。私たちの願いは目先のものであり、御心と異なるものなのです。
もう一つには、地上の価値観で、つまり「上座が偉い」と天を推し量った誤りです。天ではこの世と反対に、仕えられる者より仕える者の方が高い地位を有するのだと主は諭されています。私たちの願いは目先のものであり、御心と異なるものなのです。
祈りについて考えますと、幼児のような初期段階として、何でも求める段階があり、成長すると、神を知り、愛し、信頼するという段階に至ります。さらに御心を行いたいと祈り求める主に召されての献身者の段階があります。主の同労者として迫害や困難にも聞き従って、栄光の主を証しします。
どの段階においても祈りが決定的に重要ですが、皆様にお伝えしたいことは、ヤコブとヨハネのように、私たちも神に祈り求めますが、「何を求めているのか、わかっていない」祈りの状況にとどまっている可能性が高いことです。私たちが願っているあらゆることは、すでに主はご存知なのです。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)
このように、世のことで思い煩っているのが私たちであるとしたら、ではいったい私たちは何を神に求めて祈るべきなのでしょうか?主は明確に示されます。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
(マタイ12:30)
私たちは、父なる神を「全力を尽くして愛せるように」祈れるなら、それは御心です。子が親に反抗し、忘恩の言葉をいかに吐いたとしても、親の愛は微動だにしません。そのことに気がついた子が為すべきことは、悔い改め、親孝行、つまり親に仕えることです。この世での、私たちの祈りで最も大切なことは、心を尽くし、思いを尽くし、知性と力を尽くして神を愛せるよう祈ることです。
私たちは、父なる神を「全力を尽くして愛せるように」祈れるなら、それは御心です。子が親に反抗し、忘恩の言葉をいかに吐いたとしても、親の愛は微動だにしません。そのことに気がついた子が為すべきことは、悔い改め、親孝行、つまり親に仕えることです。この世での、私たちの祈りで最も大切なことは、心を尽くし、思いを尽くし、知性と力を尽くして神を愛せるよう祈ることです。
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