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2016年12月

2016年12月25日 (日)

受肉された神

ルカの福音書 1章37節 
神にとって不可能なことは一つもありません
  私たちの神とはどのようなお方なのでしょうか?また、どのようにして私たちは神さまと交われるのしょうか?

 キリスト教など一神教には、偶像がありません。神のすべては、この聖書に不足なく明らかにされています。ですからクリスチャンで神さまのことを知りたい方は、まず神さまのどこを知りたいかを心を尽くし、祈りをもって聖書を読んでいただきたいと思います。求める者に神は必ず答えてくださいます。または、あなたの教会の牧師に聞きましょう。使徒8:31でカンダケに神がピリポを遣わされたような助けが、あなたにもたらされるかも知れません。
 付け加えますと、このことにちゃんと神は備えてくださいました。それは人となられた神、イエス・キリストです。今から二千年前、人となってくださった神を見ればよいのです。
 
 今日は12月25日。諸人こぞりてキリストの生誕をお祝いする日です。イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。天使ガブリエルからこのことを聞いて、あり得ないと思ったマリヤに対して天使ガブリエルが言った言葉が「神に不可能はない」と言うことばでした。全能の神にとって、聖霊によって処女マリヤから生まれることなど、簡単なことでしょう。しかし神は霊でした。その霊なる方が次元の低い不自由な肉の体をお持ちになった、このことに示された神の愛と計画が、処女云々より人間の理解を超えた、恵みの真の大奇跡でした。
 
 イエス・キリストという人となり、また為されたことがらについて、四つもの福音書で詳しく述べられています。嵐を静め、湖の水の上を歩き、五千人と六千人の給食を二匹の魚と五つのパンから為された。あらゆる病や精神の病をいやされ、罪人を赦し、弟子たちを訓練し、万人を愛された。これらの他にどのようなお方であったかを知るには、山上の垂訓と呼ばれるマタイ五章が参考になります。弱い者、貧しい者、悲しい者に寄り添い、あわれみ深いお方でした。また18:2にあるように、当時は無価値な者とされていた子どもを愛された。このように同7:11にある、神の御心というものを私たちに見せ、伝えてくださったのです。
 
 イエス様ご本人に関して言えば、ガラテヤ5:22-23「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にある聖霊の実そのものを実際に現してくださったのもイエス様です。その上、十字架によって死に、復活されたすべてが、人間を愛してやまない神の御性質を現しておられるのです。信じるあなたのただ中に、イエス様の霊、三位一体の神である聖霊さまがお住みになっておられます。己の内に住みたまう神さまを確信し、心から祈れば、神はその祈りに答え、必ずご自身を示して答えてくださることでしょう。

2016年12月18日 (日)

復活

使徒の働き 17章31節
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
古今東西の宗教で、教祖があまりにも残酷な公開処刑である十字架で死に、しかも三日目によみがえった・・・なんてものはありません。またキリスト教を特徴づけるものに奇蹟があります。湖の上を歩き、嵐を沈め、あらゆる病を癒やし、死人を何人も生き返らせるなどです。旧約時代にも奇蹟はありましたが、新約のイエスとその弟子たちほど、わずかな時間、広範囲にたくさんの奇蹟を現されたことはありません。
 
 少し前のクリスチャン映画三部作では、「復活(原題Risen)」がありました。日本語では「復活」ですが、英語ではRisen=よみがえったとResurrection=(教義的なキリストの)復活の違いを使い分けています。映画ではローマ百人隊長クラヴィアスが、部下の不始末を受け、遺体となっているはずのキリストを徹底捜索の結果、生きているキリストに出会うことになります。この段階では彼はよみがえったことの証人ですので、原題がRisenであるわけです。しかしこのrisenは生き返っただけで、いつかは死にます。Resurrectionとなると永遠に不死であり、さらに新しい肉体をも伴っているのです。
 
 よみがえりから復活へと。実はこれが異邦人には最も信じがたいところです。聖書のこの箇所では知性を代表するアテネ人は、復活の話になると使徒17:32「あざ笑い」、また「またいつか聞くことに」と相手にしなくなったとあります。これは今の日本人にも全く当てはまることで、十字架ならまだしも、復活を聞くと心の中では「あざ笑う」者が続出することでしょう。
しかし常識有る人々が到底信じられない復活なかりせば、キリスト教信仰は空しいのです。十字架の罪の赦しは、復活のためです。死後、霊魂の不滅、天国と地獄を説く宗教はあまたあっても、その体がさらに良いものによみがえり、天の国において永遠に生き続けるなどと説く宗教は世界で唯一、キリスト教だけです。到底信じられないことを全く信じる、これがキリスト教であり、信仰と申します。ペテロの信仰告白を受けられたイエス様が、十字架と復活のことを教え始められたのは当然のことです。付け加えてですが、このことは代々の聖徒の信仰告白「使徒信条」にはっきりと述べられています。
 クリスチャンであっても、復活の信仰が単に知識として留まっており、確信がないというか現実感のない方が多いと思われます。そういう方は非常に大切なことですから是非、熱心に祈り求めていただきたいと思います。
 
復活信仰のポイント
①(霊的面)死の恐れから解放してくださり、永遠のいのちを与えられた実証であり、死の恐れを打ち滅ぼしてくださった。天国(天の都エルサレム)に住まう確信を得ること。
②(肉体面)その体は、キリストの復活と同様、御霊の体と呼ばれる、今の血肉の体の制約を超えた別次元の永遠の体である。キリストはこの約束の成就と見本となられた。

2016年12月11日 (日)

リバイバル

使徒の働き 4章29-30節
29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。
 
弟子たちのしるしとわざはすべて、聖霊に満たされて行われました。少々の聖霊ではありません。満杯です。いささかの他の霊、人間的な思いは混じる余地はありませんでした。つまり神が指示され、弟子たちを通して行われたのです。
 
ペンテコステでの三千人の救い・・・教会の発足に次ぐ神の計画とは次なようなものでした。四十過ぎの下半身の障害で立つことができない男が、美しの門に座らせられていました。宮詣での人々から施しを受けるためです。この時代、障害というものに理解も、サポートもない時代でした。まして多くの人からは障害が罪の結果と見られていたのですから、この男のこれまでの人生は苦しみと屈辱の人生であったかも知れません。しかし彼がこの状態からの救いを求めていたのは明白です。
美しの門と言うのは、エルサレム神殿の中の中、異邦人の庭を分けて、神殿を囲む聖域があり、その唯一の入り口です。ここに置いてもらえたと言うことは、神殿に詣でるユダヤ人全員がこの男を知っていたはずだということになります。神は誰もが認めざるを得ない、揺るがぬ証人としてこの人物を選ばれたのです。これはヨハネ9:3「神のわざがこの人に現れるため」のイエスの言葉の実証でもあります。
 
ではその展開を見て行きましょう。使徒3:4からです。少し要約して申します。
ペテロたちが「私たちを見なさい」と言ったので、何かもらえると思って、足が悪いこの男はペテロたちを見上げました。この男はつい最近、都で起こったこと・・・イエスという癒やしと奇蹟の人が十字架上で死んだこと、復活したこと、聖霊降臨があって、三千人という多くの人々がイエスを信じたこと・・・などをかなり知っていたはずです。ですから、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言われた時、彼らが自分の右手を取って立たせよあとしても抵抗するどころか、彼の人生にあり得ない不可能なこと、その手にすがって立とうとしたのです。つまり、信仰を働かせました。
 
私もかつて、車いすに座るようになった母を立たせようとしたことがあります。肉親の情で、元気だった頃の母に戻れるよう、癒しの祈りをしてからのことでした。母もつい、立ってみようとしたのですが、神の言葉があったわけではなかったので、私は重い母の体重を支えながら、全力でいすに戻すしかありませんでした。
 
しかしこのペテロたちの場合は実に明瞭に奇蹟が起こりました。差し出された手に従って立とうとしたこの男は、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり」とあります。つまり、信じ聞き従った結果、奇蹟が現れたのです。足とくるぶしが強くなったから立てたのではありません。ここが大切です。聞き従った結果、起こったのです。
8節に彼は「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」とあります。いくら何でも、これまで立ったことがない者がすぐに躍り上がり、跳ねたりできるでしょうか? あり得ません。これは本当に想像を超えた奇蹟なのです。
 
マタイ21:21やマルコ11:23に「山をも動かす信仰」ということがあります。私はリバイバルの炎が本当に燃えさかる時には、多くのしるしや奇蹟が起こされると信じています。そしてそれはイエス様と使徒の時代の比ではないと思われます。奇蹟を目の当たりにして、多くの日本人は手品だと思ってトリックを懸命に探すことでしょう。何とか合理的に説明できないかと・・・。しかしその努力も空しかった時、この世界では物理や科学では説明できない、自分の考えの範囲を遙かに超えた世界があり、それは霊的な神の、信仰の世界があるということを認めざるを得ない事態に陥るということなのです。
 
ここにおられる神を信じる皆さん、皆さんにはお一人お一人に神の計画があり、神のその時には証人として用いられます。ただし、くれぐれもご注意ください。内住ではなく、聖霊に満たされた上で、神に聞き従うのです。ペテロたちも、そして私たちも、です。
皆さん、聖霊とその満たしを求めましょう。

2016年12月 4日 (日)

神のわざ

 ヨハネ 9章3節
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが現れるためです。」
 
教師という職業柄、障害児と関わる機会が多くありました。家庭訪問である程度信頼していただきますと、たいていのお母さんはわが子の障害について「私が悪かったのでしょうか」と胸の内を明かしてくださいます。社会の偏見や差別を100%身に負われて、苦しんでいらっしゃるのでした。未だに「税金の無駄遣い」と揶揄する人がいるようですが、もしそれが自分の子だったら、と相手の身になって考えられないようです。これはお金の問題ではありません。
 親として障害の原因をお医者さんに聞いても、発生率などをあげられて、「たまたまあなた方が引き受けられました」と説明されても、日々の現実にそれで納得できるようなものではないでしょう。世界の宗教の中で私の調べた範囲では、障害に対峙して教えているのはただ一つ、キリスト教だけです。そしてそれが本日の聖書箇所です。
 
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」  ヨハネの福音書 9章3節
 
 これは障害や病を通しての、神の計画と働きがあるのであって、神の栄光が現されるということなのです。実際9章では生まれつきの盲人が癒やされましたが、それは当時の宗教的権力者であったパリサイ人たちに対して、大いなる証しのために用いられました。彼を知る近所の人や両親までも、恐れて黙する中、何と大胆に元盲人は証しをしたことでしょう。しつこくパリサイ人に尋問されても、

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのかご存じないと言う。しかし、あの方はわたしの目をおあけになったのです。神は罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、誰でも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられのでなかったとしたら、何もできないはずです。」  ヨハネ9章30~33節

と答えたのでした。これは非常に重要な証しの見本だと思います。私たちが伝道する時、あれこれ教えを伝えるのでなく、信じた結果、どれほど自分が変えられてきたか、そのことだけをこの元盲人が語ったように語れば良いのです。何も考えておく必要はありません。飾らずに、ただ事実だけを淡々と語ればよいのです。
元盲人はこう語ったので都から追放されましたが、これは彼の信仰を守るためには、腐った信仰であふれている都よりも良い導きであったと思われます。障害者、精神の病を持つ人、世的には能力が無い者を通して、神の計画があり、進んでいきます。すべての栄光を神に帰すことができるからです。ですから皆さん、弱さは私たちの心を神に向け、神の栄誉をうばわない私たちの宝物なのです。 ハレルヤ!

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