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2017年1月

2017年1月29日 (日)

御霊によって歩む

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)」と言われました。にも関わらず、クリスチャンでも、右の絵のような「聖霊の実」が現れていない方がおられます。つまりクリスチャンになっても「愛」も「喜び」も「平安」もなく、未信者時代とそれほど変わらない生活を送っておられるわけです。S
 血肉の体は御国を受け継ぐことができません(1コリ15:50)。同じように肉の心では聖霊の満たしを受けることができず、天に宝を積むことができません。聖霊なる神を通して、聞き従うことができないからです。永遠の天に比べれば、血肉のこの世はホンの一瞬です。このままでは取り返しのつかない、本当に痛恨の極みとなります。
 それで聖霊を求め祈るのですが、神は聖にして義なるお方です。肉の心(自分)が中心となっている限り、その人に主として入ることがおできになれません。人間は罪深く、信じても容易に自分を明け渡しません。愛する者に神は試練をお許しになります(へブ12:7)。ですから私たちは試練、困難を心から感謝するのです。
 私たちがどんなに罪深いか、一つだけ例をあげましょう。すごく自己否定的な方が居られたとします。一見謙遜にも見えます。しかしその自己否定が、実際の自分よりもはるかに高い自分を想定しているため、それに達し得ない自分を否定し受け入れられないのであれば、それは逆に高慢になりかねません。
 
 どうしたら具体的に聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。ペテロは使徒2:38で「悔い改める」ことと「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことだと言っています。チョー・ヨンギ牧師はクリスチャンに内在する「憎しみ」「恐れ」「劣等感」「咎め」を悔い改めることだと言っています。私自身の体験から申しあげるなら、それを受けるには
(1)絶対注がれるまでは諦めない熱心と、
(2)神が導かれた「深い悔い改め」の中で、神の時に注がれるとしか言い様がありません。
 
「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがありましょうか」(ルカ11:13)

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。

2017年1月15日 (日)

私はあきらめない

ローマ10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 困難と試練とは異なります。神を信じていない時のものが困難で、クリスチャンになってからは試練と分けています。私たちは本来傲慢なので、困難があるからこそ神に救いを求めるようになるのです。クリスチャンになってからの試練には、神の計画があり、信仰を引き上げ、使命を果たせるようにする訓練プログラムの一環という面があります。試練によって謙遜を得、聞き従うこと、感謝する願いを起こさせていただくことができるようになるのです。
 
 試練は一度来るだけではありません。Gif_4 何度も繰り返すようでいて、そこに成長と深化があって、スパイラルに、段階的に私たちは引き上げられていきます。それには神の教育法とでもいうべきものがあって、三つの過程をスパイラルに繰り返されて引き上げられていくと思っています。これを「きよめ」とか「聖化」と言い、ある段階まで来ると主の器として用いられていきます。
 
 神のプログラムの中で特に試練は、私たちの願いとは、別に残念ながら肉体がこの世にある限り終わることはないようです。なぜなら、肉体は滅ぶべきものであって、地に属するものです。同じく滅ぶサタンからの攻撃を受ける引っかけ口みたいなものでしょう。だから私たちは脱肉体というか、天を待ち望むのです。もともとクリスチャンは天に属しており、天はクリスチャンの故郷ですし、誘惑や試練はないからです。
 
 世においての私たちに対する神様の目的は、祝福です。ただし、この世で得られると思ってはなりません。信仰の父アブラハムも、マクペラの洞窟以外は世においての所有物はありませんでした。この世では、神様の御栄光が褒め称えられることが唯一の目標であって、私たちにとっては、天国においてのご褒美こそ祝福です。
 世においては神に聞き従って神の器となり、すべての栄光を神に帰しましょう。天の御国において祝福されることになります。そのために、熱心に自分を捧げられるよう祈りましょう。試練はその答えであり、 はじめの第一歩です。hallelujah!

2017年1月 8日 (日)

あなたの信じたとおりになる

マタイ 8章13節
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
                           
  人間は肉体という物質と物質でない霊との共存体(ハイブリッド)です。物質は見えますが、霊は物質でなく永遠に存続しますから、見えません。見えないものが、制限のある見えるものをコントロールしています。ですから次のことが言えます。霊的に健康な人は肉体的にも健康であり、その逆もまた真です。そのため私たちの群れにあって癒やしは、霊的な面の取り扱い(救い・信仰)が前提視されるわけです。
 
 この見えない霊には三つあり、神と神に属する天使たちがあり、サタンとサタンに属する悪霊どもがあります。三つ目に人の霊があります。その力は1に神、2にサタン、3に人間と強さが異なります。つまり、人間は神に拠らない限りサタンに勝てないという点が重要です。要するにクリスチャンは、神なしには何もできません。そこで今あなたは、どちらの霊に支配されておられるでしょうか?自分で吟味をなさってください。
 
 さてここまでは準備運動です。私たち神を信じる者の霊には四つのPhoto_2霊的要素があります。
  一つめは「考え」です。現状を肉の目で見るのか、それとも霊的な目で見るのか、と言う認識です。どちら側の立場に立って見るのか、ということでまったく異なった展開になります。昔、エリシャがドタンでアラムの軍勢に包囲された時、エリシャはしもべと全く異なった認識をしました。エリシャにはアラムの軍を逆に包囲している主の軍が見えていたからです。クリスチャンに関して悲観的・否定的な見方はサタン的です。しかし聖霊とその信仰に拠って見れば、神の力による前向きな結果、栄光を産みます。
 
 次に「神には不可能なことはない」という信仰の言葉と土台に立つことが重要になります。これには聖句を用いたり、これまでの経験を用いるべきです。
 三番目に、実際にそのことが成就することをイメージし、リアルに夢を描くことです。それを毎朝、鏡の前で自信が得られるまで告白したりすれば大きな力になります。
 
 最後にそのような肯定的・積極的・前向きな言葉を告白しましょう。口から出る言葉には裁き(審判の意味ではなく)が伴います。信仰の言葉を紡ぎ、告白しましょう。該当する聖句でも良いでしょう。み心に反するのでない限り、主の時にそれは必ず成就します。まさに「あなたの信じたとおりになる」のです。

2017年1月 1日 (日)

神の住所

エペソ 3章16~17節
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 日本人は今朝の元日、日頃は心にもかけず、信じてはいずとも、慣習か、またはわずかに残っている宗教心のためなのか、神社に詣でるようです。私たちのキリスト教の神さまは天地万物を創造された神です。偶像などに置き換えて拝まれることをたいへんお嫌いです。
 ではいったいクリスチャンどこを指し、どこを向いて、神を拝めば良いのでしょうか。よく「天にまします父よ」と祈りますので、天の方を向いたら良いのでしょうか。しかし日本とブラジルとでは、天の方角がまったく違うではありませんか。神はどこに居られるのでしょうか。イエス様が帰られた所、エルサレムのオリーブ山の上の方なのでしょうか。いえ、実はこのような特定の住所探しは愚かです。三位一体の神は時空を超えて遍在されており、どんなところにも居られるのです。
 それでもあえて「神の住所はどこ?」に答えるなら、神は神を信じる者の心の中に住んで居られます。今日の聖書箇所にあるように、聖霊なる神がクリスチャンお一人お一人の内に住まわれるので、私たち自身に聖霊の宮があるのです。ですから内なる神は、私たちのどんなつぶやきや、知られたくない心の秘密など、すべてご存知であります。どんな隠し事も、神さまには一切通じません。
 
 そう言われましても多くの信徒の方から「神さまの声など聞いたことがありません」「内に住んでおられる実感がありません」などと言われそうです。このような疑問に対して、まず第一に聖書がそう言っている確かなことであること。十字架は罪を赦し、聖霊さまをお一人お一人に内住させるためであったこと。最後に、以下に述べる四つの罪が内に住まわれている聖霊様との交わりを遮断しているからではないか、と申し上げましょう。
 
一つめ、未だ人を許していない「憎しみの罪」(マタイ6:14)があるため。
二つめ、恐れの罪。恐れはサタンを通す管です。恐れに支配されていては、1タラントを埋めてしまったしもべと同じ結果(マタイ25章)になります。
三つめは劣等感の罪、四つめは咎めの罪です。
これらはいずれも肉の思いが聖霊さまとの交わりを遮断してしまい、神の聖さもその臨在の恵みにもあずかれなくしているのです。ですから内住される神がわからないのです。
 
 どうか祈ってください。四つの罪に気づかされ、切なる祈りによって変えられ、肉において死ねるように。内住される聖霊と親しく交わることができ、信頼し、徹底して聞き従がい、主の御心の道を歩まれますように。神の恵みに与れますように

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