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2017年2月

2017年2月26日 (日)

創造の目的

コロサイ人への手紙 1章18節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
少し前のことです。いつもの歯科医院でブラッシングの指導を受けていると、「ここ、いつも磨いていませんね」と言われた所がありました。「そんなはずはない」と思いつつ教えてもらいますと、なんと私に親知らずの歯がありました。もう少しで私に、親知らずの歯が在ったことを知らずに終わるところでした。知っていなければ、それは存在していないのと同じです。ケアされないで無視された歯は、早晩虫歯か歯槽膿漏になったでしょう。
 
人が全知全能の神を認めないのもこれに似ています。世のほとんどの人は、私の親知らずの歯のように認識せず、したがってぞんざいにして、神の恵みを無にしてしまうのです。
さて、霊的な存在には神・天使(堕天使を含む)・人があります。その中でも人は物質を伴ったハイブリッドですので、端的に言えば人のために、天地万物のあらゆるものが用意されたと言っていいでしょう。この宇宙と人を含めた天地万物は、誰が造ったのでしょうか。またそれは、何のためでしょうか。
 
ちょうど本日の聖書通読箇所であるコロサイ書の1ー2章にその答えがありました。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた(コロ1:16)」とあるのです。ピリピ書2:10-11でも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」とあります。実にすべてのものがイエス・キリストにあって造られ、またイエス・キリストのために存在するのです。ではそれは、いったいなぜなのでしょうか。
 
ピリピ2:6-8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・・」とあり、キリストは神であるにもかかわらず、卑しい人の形をとってこの世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
キリストは人として歩まれていた間は、小さい者、弱い者、病ある者を助け、癒やし、力を与え続けました。その最後は全き罪無き方であるのに、十字架にかかって全人類の贖いの小羊となってくださったのです。神との和解を間に立って執りなしてくださった仲介者なのです。神の全性質がキリストにあるのですから、神はこのような愛そのもののお方だということが分かります。
 
神を信じるなら、神は私たちを罪から解放してくださり、ご自身の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださいます。今もなおキリストは天で、神の右の座で、私たちのために執りなしていてくださっています。これをなんと言いましょうか。何と計りがたい神の知恵、その奥義。我らの救い主、主を崇め賛美しましょう。私たちはその恵みの証人です。

2017年2月19日 (日)

もう一人の助け主

 ヨハネ 14章16節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 
 聖霊について、実はよく分からないという方が結構クリスチャンに居られます。聖書に聖霊の内住だと分かる箇所があります。16節「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになり・・・・その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられる」ところです。助け主とは聖霊なる神です。この方を私たちに送られるためにキリストはこの世に来られ、十字架にかかってまで私たちを愛してくださいました。ですからイエス・キリストを主と信じるならば、聖霊さまは私たちの内に住んでくださるのです。しかし多くの場合頭だけであって、実際には分からないようです。
聖霊なる神はこの章の26節以降ですが、三つの現れがあります。一に教え、思い起こさせてくださる。二に、平安を与えてくださる。三に孤児にはせず、助けてくださる、と。
この意味です。神は皆さんの人生の始まりから私たちを子として特別に養護し、育てていてくださっているのです。時が来た時にですが、子ども時代の写真アルバムをめくるように、御手の内にあった数々の出来事を神は思い起こさせてくださいます。実際私も、神さまを知るまでのこと、信仰告白をしても、神に従おうとしなかった放蕩息子の時代のことなど、本当にくまなく見せて教えてくださりました。いかに神さまが忍耐強いか。どんなに私の心が神さまに向くのを待っていてくださったかが分かりました。神は私たちを愛しておられ、私たちの心が神に向くことをお望みなのです。

次に神は平安そのものであることです。確かに時に注意を受けたりしますが、それは「叱られる・叱責」というより、「よくぞ叱ってくださった」と「注意されて愛を感じる」性質のものです。ましてそこに恐れを感じることは決してありません。

 もしそれがホンの少しでもあれば、断言しますが、それは神ではありえません。平安の反対は、巧妙なだまし屋サタンの手口です。Beach699435_960_720_2すぐさま問答無用に遮断し、追い出してください。神はこのような、私たちがどんなに惨めで罪深い者だとしても、決して見捨てず、呼べば助けてくださるお方です。

     この神さまと私たちとの関係は有名な、「砂の上の足跡」からもよく分かります。
本日はこれを紹介して終わりにいたします。
 

2017年2月12日 (日)

信仰

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

今から数十年前のことになりますが、私たちの群れが中国に聖書を持ち込んだ際、二十年以上の獄中生活を送られた方々に会いました。その人たちに、さぞ辛かったでしょうと獄中生活をねぎらうと、「Never!」と答えが返ったそうです。「イエス様の十字架を負うと、イエス様の愛がよく分かった」とも。獄中生活は、それはそれは神さまと一緒の素晴らしい時であったのでした。迫害のような恐れる事柄に対し、この事は多くの示唆を与えます。神に従う者に聖霊の力が注がれることを忘れてはなりません。聖霊の力とは聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けてのものです。
 
 クリスチャンは各自、はっきりと聖霊のバプテスマをImages_2 受けた体験を持つ必要があります。聞き従いは、神を知り、その確信に立っています。ですからはっきりと分かる聖霊のバプテスマを祈り求めてください。聖霊を知らずしてどうして「神に聞き従う」ことができるでしょうか。明確な聖霊のバプテスマを受けることが全ての始まりです。
 少しオーバーに言えば、このように聖霊様を求め得られなければ、クリスチャンとしてこのまま地上で生きていてもしょうがない、とまでの飢え渇きが湧くのが自然です。自分が中心である肉のクリスチャンには、このような祈りや渇きはありません。
 
 聖霊のバプテスマを受けると何が起こるでしょうか。神さまが分かるのです。神さまとはどのような方なのか、それこそ「御霊の実」そのものであることが分かります。その絶大な価値の故に、それまでの自分自身がまったく無であることに気づかされるのです。そして神に、自分を完全に捧げたいと心から願うようになります。神を愛し、聞き従いたいと願うようにもなります。また聖書がよく分かるようになります。聖書は聖霊によって書かれたものだからです。さらに聖霊は九つある聖霊の賜物を通して、私たちを証しの器としてお用いくださいます。このように聖霊のバプテスマはその人自身をまったく変えます。霊・魂が神との正しい立ち位置に戻ったので、肉体と心のあらゆる病がいやされていきます。
 
 ですからお奨めいたします。あれこれ日常のことを祈り求めるのも大切なことでしょう。しかし、まずもって聖霊のバプテスマと満たしを求め、期待し祈っていただきたいと思います。そうすれば日常のすべては、添えて与えられます

2017年2月 5日 (日)

あなたは何処へ行く

ローマ 1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 全国の高齢者の皆さん、私もこの度お仲間に入れていただいた若輩者ですが、年金とか、各種公共料金など、いろいろお得になったことがわかりました。しかし振り返ってみれば、喜んでばかりはいられない年代でもあると思います。
 なぜなら私と妻には普通の倍の八人の親がおりましたが、誰一人この世にはおりません。気がついてみれば、順当にいけばですが、次は私たちの番なのです。人生の折り返し点をとうに曲がりきった私たち高齢者は、命というものを真剣に受け止めなければならない世代です。人は死ねばお終いで、一切は無だと思っておられる方は少ないでしょう。形ある物は必ず朽ちていきますが、見えないもの、形ないものは朽ちず滅ばず、永遠です。人間の霊・魂というものも同様です。たとえ体を失っても永遠に残ります。
 
 問題は血肉のこの体を失った後、霊、魂が何処へ行くのかということです。仏教では、仏を信じる者は皆、極楽浄土に行くんだと聞かされました。しかし私は皆ということ、それが気になりました。なぜなら、罪が消えておらず、それならこの世とあまり変わらない所のように思えたからです。この世とあまり変わらないのであれば、行きたい所ではありません。はっと気がついてみると、赤い炎がちらちらしており、すごい臭いのする所では後の祭りです。死後の選択とは生きている間だけの、たった一回だけの選択です。永遠を時間をそこで過ごすとあれば、これに失敗するわけにはいきません。
 キリスト教では、唯一にして三位一体の神だけが神です。イエス・キリストは神の子であるのに、卑しい肉の形をとって処女からお生まれになり、十字架によって全人類の罪を背負ってくださいました。身代わりになってくださった十字架を信じる者は、完全に罪が赦され、聖霊が住まわれて新生し、罪なき世界、天国に行けます。
 
 そこで皆さんによくよく考えていただきのです。先ずキリスト教は世界最大の宗教です。22億人以上、つまりこれは人類の三人の内一人はクリスチャンです。次に世界最古、何と四千年の歴史を持っていることです。最後にキリスト教は国籍、民族を問わない世界宗教であることです。例えばヒンズー教はインド、道教や儒教は中国や朝鮮半島だけという特定の民族と地域のものです。ところがキリスト教はアジア大陸の西端から発して、全ヨーロッパ、アフリカ南部、海を越えて南北アメリカ大陸、オーストラリア、最後にアジアのフィリピン、韓国へと五大陸をカバーしています。日本を除く世界の先進国が皆、キリスト教の国なのです。

 皆さんイエス・キリストを信じて、また天国でお会いしましょう。短いこの血肉の命に比べ、永遠の命の世界を、どうか選び取ってください。

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