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2017年3月

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

2017年3月12日 (日)

主の日、後の時代

Ⅰテモテ 4章1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
Ⅱテサロニケ 2章3節
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
先週の月曜日がⅡテサロニケ2章、昨日の土曜日はⅠテモテ4章であり、この両方とも終末に触れている箇所です。偶然はないと感じました。Ⅱテサ2章での「主の日」とは、キリストが地上再臨される時であり、Ⅰテモテ4章「後の時代」はその前に来る大患難とリバイバルの時代のことを指すからです。
 
 一昨年からこの群れでは「リバイバルが始まりました」と語られています。ただそれが本格的に「今日来るか、さては明日か」と待っている方がいらっしゃるとしたら、ちょっと気をつけましょう。聖書に立って時を調べてみれば、次のように述べてあるからです。
 
 まず第一に『背教』(Ⅱテサ2:3)が起こらなければなりません。背教とは聖霊の賜物を受け、不思議なわざを行っていたような器が神に背くことです。教会の指導的な立場の人たちが、神に背く存在となります。サタンが全天使の1/3を惑わして悪霊に堕としてしまったようなことが、終末の時代に起こる可能性があります。わざや奇蹟に目を奪われ、神からのものが見分けられない多くの信者が惑わされるのでしょう。
 
 次に世界の比類のないリーダーとして、反キリストが登場しなければなりません。彼は不法の人ですが、死んだように見えても生き返り、誰もが為し得なかった中東和平を成立させます。その結果神殿の丘に、全イスラエルの悲願であった第三神殿が再建されます。このことをⅡテサ2:4で「神の宮の中に座を設け」と予告しており、サタンがサタンとなったゆえんの、反キリストが自分を神とし、己への礼拝を強要する最大の罪を犯す事態が来なければなりません。人々は熱狂してこれを歓迎し、反キリストへの礼拝を拒むことは命懸けになるでしょう。
 
 第三にマタイ24章でも語られているような、月が血の色に変わるような天変地異、飢饉、パンデミックな疫病、戦争の噂などが起こって来るでしょう。これらの事柄が起こらなければ、後の時代も、主の日も来ないのです。また見せかけでも、熱心そうに断食したり、苦行を説く者にもだまされないようにしましょう。
 
 私たちは「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。誰にも、どのようにも、だまされないように(Ⅱテサ2:2)」いたしましょう。何が神から来たものかどうかが判断できるように、普段からしっかりと主と交わっておくことが大切です。まさに油を切らしてはいけないのです。ポイントは聖書と祈りです。聖書を読み込み、聖書が知識と信仰の土台となっていること、日々主の、み心を行いたいと祈り、感謝し、喜んでいるならば、どんな時が来ようと万全だと言えるでのす。

2017年3月 5日 (日)

私があなたを遣わすのではないか

士師記 6章12・14節
12節 の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。があなたといっしょにおられる。」
14節 すると、は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
 
 ギデオンはイスラエルのカナン定着の初期、士師の時代においてサムソンと並んで最も有名な指導者です。しかしナジル人で生まれつき選ばれていたサムソンと対照的に、召命を受けた時の彼は属する部族も、その立場も弱いものでした。ですから士師になるには「最もふさわしくなかった」人物とも言えます。今日はこの「ふさわしくない」が一つのテーマです。
 
ギデオンの名には「強い勇士」という意味があります。しかし神に会うまでのギデオンはミデヤン人を恐れて脱穀の麦を酒舟の中で打っていたという名前負け状態でした。脱穀の麦を打つためには、風通しの良い戸外でする作業ですが、そんなことをすればミデヤン人に見つけられて、麦を奪われるばかりか、隠していたとばかり痛めつけられる恐れがありました。
 
ミデヤン人とはアカバ湾の両側であるアラビヤやシナイ半島南部に住んでいた遊牧民です。アブラハムの二番目の妻ケトラとの間に生まれた民で、モーセの妻になったチッポラもその民の一人でした。イスラエルの地から見れば最も遠縁で遠方の民族、ミデヤン人がヨルダン川を渡って東から略奪に来ていました。
 
この時イスラエルは弱く、略奪に堪えかねて救いを待ち望んでいました。その叫びに神は、もっともふさわしくないギデオンを選ばれました。ギデオンがミデヤン人と戦うために角笛を吹いて、3万5千人集めましたが、神はこれ1万人に減らし、さらにハロデの泉でたった3百人に落とされました。これはイスラエルが自分の力で勝ったと言わせないためでした。こうして神の御業が現れる舞台は仕立て上げられました。このことからもわかるように、神のみ心は、民がどうにかして心から神を信じて欲しい、そう願っておられるのです。
 
今日、当初のギデオンのように、名前負けをし、現状に希望を失ない、人生に立ち向かうのに無力感を感じておられる方がおられるかも知れません。しかし大事なのは現状ではありません。ギデオンのように、ただ「神がその人とともにいらっしゃるか」どうかです。
人生の主な問題は、「主があなたと共におられるか否か」です。それは逆説的ですが、自分の計画や夢、希望を一切棄てて、代わりに神の計画の実現にそれらを置き換えることです。ただ神を信じるだけでなく、神を主とし、己を僕(しもべ)として神に聞き従う道でもあります。クリスチャンでも、このように願っている人はごく一部の人だけという現実があります。
 
ただここに大きな問題があります。神に用いられて行くと、サタンがそうであったように、高慢に陥る可能性がたかいのです。これは何としても避けなければなりません。ですから、誇れないように、ふさわしくなかったギデオンを召し、絶対自分たちの力で勝ったと言えないよう、3百人で13万5千人を打ち滅ばされました。
 
 このように「自分はふさわしくない」と思っておられる方、あなたこそ神に栄光に帰すことができ、神に用いられる器として最も適した状態であるとも言えるのす。ただ神を信頼し、神に期待して目を上げましょう。お一人お一人に神の最善の計画があります。どうか神があなたの人生に、ともに歩んでおられますように。

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