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2017年4月

2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう

2017年4月 9日 (日)

クリスチャンの成長

イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」


 長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
 もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpupどころかDowndownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
 
 さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
 
 クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
 
 クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。

2017年4月 2日 (日)

原罪から恵みへ

創世記 3章6節
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 このアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されるという原罪の記事は、人間のどうしようもない罪を明らかにするだけのものでしょうか。そうではなく、キリストとその十字架による赦しと解放へのドアです。また最終的にはエデンの園にあった永遠の命である「いのちの木」をも与えようとする祝福のプロローグなのですから。
 
 では園に神はなぜ禁断の木の実を置かれたのでしょうか。疑いようもなく、神への「愛」と「従順=戒めを守る」というシンボルでした。キリスト教信仰とは、一言で言えば関係の宗教だと言われます。人格的な関係というものは何よりも信頼が土台です。ですから国旗のように、園の中央に置かれていたのです。
 
 エバの行動で推察されることは、「それに触れてもいけない」と言われていた所に単独での近づいたことです。蛇とのやりとりを通して、そばにアダムが居たような記述がありません。禁じられている恐い所、そこにだけ蛇が居たようですし、そんな所にわざわざ一人で近寄って行くでしょうか。エバに単なる興味や好奇心以上の、神の戒めを疑い、自分の目で本当かどうかを確かめてみたかったという意図を感じます。
 
 エバの罪は蛇の言葉を神よりも信じたことです。サタンの本質は偽りとだましです。また恐怖で人間を支配しようとします。木に近づくという神の言葉への疑いを元に、かつてサタン自身も犯して転落した罪である「神のように賢くなりたい」に、エバをだまして成功しました。神の計画を見事に挫いたようにも見えます。しかしサタンのたくらみのすべてが、キリストの十字架によって完全に打ち砕かれるストーリーが聖書です。
 
 エバのことから学べる、神との信頼関係を損なってしまう、気をつけなければならない三つの原則があることに気づきます。
 第一に神を愛することです。神を愛すれば、その心を行いたいと願うようになります。木に近づいたりするような、誘惑されに行くような危険を冒す気にはなりません。
 第二に、エバが誤ったように見た目や自分の欲や判断を優先させる高ぶりに、特に注しなければなりません。私たちは有限な誤りやすい者で、神に従ってこそ正常なのです。
 第三に聖書と祈りです。「あなたは決して死にません」と言う嘘は、それを体験してからでは取り返しがつかないものでした。見分けるために何を信じ、誰に導いていただくのか、その答えは聖書と祈りしかありません。

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