クリスチャンの成長
✝ イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpどころかDownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。
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