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2017年5月28日 (日)

信仰のスイッチ

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は私たちに一つのことしか言われておりません。それは「神を愛するように、隣人を愛しなさい」ですが、しかし私も皆さんも、「はい、それは十分にできております」とはほど遠いのではないでしょうか。あきらめるわけではないのですが、私に愛がなく、行う力がないのです。しかしだからと言って絶望するのは早過ぎます。なぜならイエス様ご自身から再々語られている「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という御言葉があるからです。愛に乏しい私たちを、神があわれんでくださり、恵んで助けてくださるのです。
 
ですから皆さん、信仰のスイッチを入れて、己ではなく、神さまの視点に立って見ましょう。隣人を愛するどころか、自分すら愛せないみじめな自分を認め、それを神に訴え、あわれみを求め続けるならば、それが神さまの御心であって、神の絶大な恵みを得るという逆転になります。みなさん、これは神の法則なのです。
 
一例を挙げましょう。イエスさまがツロとシドンの地方に行かれた時のことです。一人のカナン人の女が声を大きく上げながら、しつこくイエス様の一行につきまといました。娘が悪霊に取りつかれているので、いやしを願っていたのでした。この女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と言っていますので信仰がある人でした。この日本でもそうですが、異教社会でクリスチャンになる、有り続けることは、本物の信仰でなければ大変です。
イエス様はこの女の願いに対して意図的に冷たく無視されました。それで女はさらに叫び声をあげ、弟子たちを困らせました。しかたなく女を帰すために、女はイエス様の前に出ることができました。イエス様は女に言い放たれます。第一に「自分はイスラエルの民以外には遣わされておらず、お門違い」というわけです。普通の人ならこう言われると、落胆するかまたは怒りというか、頭に来ますよね。
 
しかし女はひるむどころか、ひれ伏してまでして「主よ、お助けください」とさらに願い続けます。イエス様はここでまた決定的な追い打ちをかけれます。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と。つまり、本来ユダヤ人への恵みを異邦人、しかも小犬・・・・これは日本人が抱くイメージよりも非常にさげすんだ表現です・・・・とまで大切な我が娘のことを言われたのです。もう、ほんとーにアッタマ来ますよね。ところがびっくり、この女はなりふり構わずイエス様に取りすがります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
みなさん、イエス様が「あなたの信仰は立派です」とほめたたえたのは、たった二人しかいません。しかも両方とも異邦人でした。なんと言うことでしょう。今日のことが予表されているかのようです。このシドン人の女は、イエス様が取った冷たい態度や突き放したことばがあったればこそ、こうしてほめたたえられる恵みに与ったのです。益とされたのです。してみると私たちの試練や困難は、恵みに与り、天でほめられるためにある・・・天の宝なのです。
自分の愛の無さ、肉欲の強さ、救われがたい自己愛・・・ぜーんぶ神さまに持って行き、進み出ましょう。神に訴え、その解決を神に求めるなら、解決されます。それがみこころなのですから。これを信仰のスイッチと申します。神に希望があり、解決があるというスイッチです。

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