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2017年6月

2017年6月25日 (日)

信仰Ⅱ

マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 
 イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。 
 
 しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
 
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのPhoto_2です。
 
 信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、 その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。

2017年6月18日 (日)

信仰

マルコ 4章40節 
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
                                                               
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうし 嵐のこの記事に、以前から二点ほど疑問に思っていました。第一に嵐で大揺れの小舟の中、水浸しで今にも沈みそうな状況で、どうしてイエス様は眠り続けていることができたのでしょうか?私はあり得ないと思っていました。しかしイスラエルで何度か行ったノフ・ギノサールにあるイエス様時代の舟の博物館で、去年その展示横にある小さな模型を見て疑問はとけました。模型では艫(とも)と舳先(へさき)に広めの板が張ってあり、イエス様は艫で寝ておられたのです。通常舳先を風先に向けますから、逆に艫は最も安定した所になります。しかもここなら濡れません。
 
 次に、イエス様はどうして弟子たちを叱られたのでしょう。ガリラヤ湖の漁師であったペテロ達が危険を覚える状況でした。寝ておられた師に助けをShip求めて起こしたからと言って、それがどうして叱られなければならないのでしょうか? ちょっと納得ができません。
 しかしこれも当然のことでした。なぜならイエス様は弟子達の信仰を責められたのです。これまで弟子達はイエス様に付き従って、大いなるわざを見てきました。イエス様がただの人間ではないことを一番よく知っていたはずです。ですから何とかしてもらおうとイエス様を起こしたのですが、しかしその前にもっと大切な<信仰の目で起きている現実を見る>ということに気づくべきでした。
 
 似たような話が2列王6章にあります。ある朝エリシャのしもべが起きて外へ出た際、自分たちをアラムの軍が取り囲んでいるのを発見します。あわててエリシャを呼ぶと、エリシャは逆にしもべの目が開くよう神に祈って、神の軍勢がエリシャ達を取り巻いて山に満ちているのを見せました。目に見える事象だけで判断すると誤るのです。神を信じる者は、まず信仰の目で見なければならないのです。私たちの感謝も同じ道理です。
 
 みなさんお一人お一人が、今現在許されているどうにもならない現実や病、困難を信仰の目で見て立っておられるでしょうか? そうするかしないかが、天に宝を積む聞き従いと感謝に、大きな違いを生むのです。二つの疑問の解き証しを通し、いかに聖書が信じるに足りる正確で正しいものか、また私たちが信仰に立つことの重要さを語らせていただきました。

2017年6月11日 (日)

前兆

マタイ 24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 使徒時代から「すぐに来る」と言われた世の終わりは、すでに1900年以上経ってもまだ来ていません。しかし非常に近づいているとも感じさせられてもいます。聖書から終末を正しく学んで、いつ来ても良いように準備しましょう。
 
 聖書のどこを読めば良いのでしょうか。主として旧約のエゼキエル書、特にダニエル書です。新約ではマタイ24章と黙示録です。これらは互いに結びついて、全体としては一つの終末像が明らかにされています。
 まず、抑えておかなければならないことに、こと聖書の時間に関しては文字通りではありません。1日が1年(民数13:34)とされるなど、ちゃんと数字の計算は合っているのですが、時間設定に注意が要ります。
 
 さてダニエル書7章の夢は登場する四つの獣が、それぞれ以下のように対応されます。獅子=バビロン、くま=ペルシャ、ヒョウ=ギリシャ、鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣=ローマ帝国です。ここで重要なことは最後のローマ帝国です。このローマが未完の表現になっていることが要注意です。この間、イスラエルという国が最後の獣ローマによってAD70年に滅亡し、つい最近1948年に奇跡的な再建がなるまでの空白が反映されていると想像されます。つまりエゼキエルの預言通り、国の再興(イスラエル建国1948年)が成って、再びローマによって預言成就の針が回り始めるわけです。鉄のきばと十本の角を持った古代ローマの後釜が、終末の時代に登場するとすれば、それはほぼ同じ場所に現れたEUが該当します。
 
 こうして見てくると終末はダニエル7章から、現在27ヵ国のEUにおいて、うち十ヵ国がイニシアティブを取るようになり、その中から反キリスト(ダニエル9章)が登場すると読み取れます。この反キリストは自分の国だけでなく、他の三カ国まで取り込み、アメリカがどうがんばってもできなかった中東和平条約も締結させます。その結果、イスラエルはエレミヤ49章にある平和を享受することになりますが、これが世界の終わり、患難時代の幕開けとなります。
 こうしてみると、中東和平条約やエルサレムの神殿の丘に第3神殿ができる(黙示11:2)までは、患難時代は始まらないことになります。それまでは「戦争や戦争のうわさ」「国々の敵対」「方々にききんと地震が起こった」(マタイ24章)としても、あわてては行けません。それらは産みの苦しみなのです。
 
  私たちはこの聖書の預言に従って時を見分けるのです。しかし信仰の基本は不変です。聖霊のバプテスマを受け、神との深い交わりの中からみこころを求め、忠実に聞き従うこと。常に祈り、霊的な満たしをもってその時に備えることは、使徒時代から何一つ変わることはないのです。その上でたとえ患難時代に入ったとしても、「主よ、来たりませ」の希望とすべてのことへの感謝をもって時を待って行きたいと思います。

2017年6月 4日 (日)

天に届く祈り

マルコ 14章36節
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 祈りの基本は、だいたい次のようだと思われます。Photo_2
○虚心坦懐、心を無にする。主を称え賛美する。
○主人に仕えるしもべのように、静まって待ち、聞こうとする。「しもべはここにおります。どうぞお語りください」と。
○語られ、示されたことは、正確に聞き取る。曖昧な点があれば、繰り返して確認する(※人と違って主は面倒がられないどころか、むしろ喜ばれる)
○心を知られる主が「願いを言いなさい」と言われるなら(※主はすでにご存知であることを忘れずに)申し上げる。知る必要のないこと以外、主は 答えてくださり、教えてくださる。
○この結果、たとえ注意されようとも、愛を感じ、平安であるならば、主と交わっていた
   のである。
 
 祈りの模範はイエス・キリストの祈りです。周囲に人が居ない寂しい所で、イエス様は一人祈られた(マタ14:23,マル1:35)ので、私たちもそのようにしましょう。教会の祈祷会も大切ですが、各個人の祈りを土台としています。
 映画「祈りの力」では、主戦場は狭いクローゼットの中でした。ですから一人になれる押し入れ、お風呂など、どこででも。私は早朝、外にあるベランダが好きです。ひざまづいて祈るタイプの私は、そういう姿勢がとれる場所がベストです。
 
 いやしにはいろいろなパターンがあります。ビギナーズラックのようないやしもあるでしょうし、信仰を引き上げるいやしもあります。けれどもその基本は、主と親しく交わる祈りを通してでしょう。
 いやしを認めていない教会とその信仰では、いやしは起こりません。私たちの船橋教会もそうですが、いやしがある教会は一般的に聖霊派、カリスマ派と呼ばれる教会です。いやしを信じ、いやしを求めて祈った結果、実際にいやされるということが普通に起きていやしですが、いやしは第一に教会の信仰を母体としています。います。
 
 次に実際のいやしの例をマタイ伝15章のカナン人の女から学んで行きましょう。この女性には一見、不幸が許されましたが、それはいやしを通し、イエス・キリストからその信仰を称賛され、栄光を現すためであったことが分かります。ですから私たちは病や不幸と思えること、そのことに対してシドン人の女のようにしつこく「あわれみ」を求め、信仰を持って立つ時に、すべてが益に変えられるです。神のみこころと栄光が現されるのです。

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