信仰Ⅱ
† マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。
しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのです。
信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、
その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。
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