フォト
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 2017年7月 | トップページ

2017年8月

2017年8月13日 (日)

永遠のいのちと御霊のからだ

ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
 
 さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
 ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
 
 一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
 
 イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
 
 するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
 

2017年8月 6日 (日)

父なる神の愛

ルカ 15章21節
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

人によっては、神は高い所から見下ろし、罪人の私たちを裁かれる恐い存在と思っている方もいますが、神の本質は愛です。意外にも神さまを理解するポイントは「支配」だと私は思います。
 
サタンの狙いは神が愛されている人間を一人でも多く支配し、自分が行かなければならないゲヘナ(永遠の地獄)へ道連れにすることです。彼らは神の計画を妨害する存在ですので、特にクリスチャンをゲットすることは大戦果です。ですから特に注意が必要です。
 
右図を参考にしてください。S
サタンは神のもの、つまり信じる者を奪おうとしますが、それに対し神は穏やかで慎み深く、私たちにズカズカと入られたりはしません。サタンは恐れや不安で人に侵入し、支配しようとします。ただ神がそれを許されるのは、私たちが真に悔い改めて、心から父のものになりたいと自由意志で願うことです。真に私たちを得たいと忍耐して待っておられるのです。
 
ルカ伝15章の放蕩息子の話は、この神の愛がよくわかるよう書いてあります。生前贈与など良からぬ意図を持って願う弟息子に、通常はあり得ないことですが、天の父は許されます。結局、放蕩の限りを尽くし、ユダヤ人にとって死にも値する豚の世話をし、その餌さえも食おうとするまで堕ちた息子が、ハッと我に返ったのです。「もう父の子でなくていい(それほど自分は父を裏切った)。これほどの恥辱は無いが、それでもただの使用人としてでも父の所に帰ろう」。この瞬間、父は愛する息子を真に得ることができたのです。人は自分のみじめさを知らなければ、真に悔い改めることができないと私は思います。すべてはそのために、あえて放蕩を父は許されるのです。
 
しかしまた父は、「早く帰ってこい」と地境をいつも見回ていたほど心を痛め、待ち続けていた存在でもありました。それだけで無く、息子が帰ってくることを固く信じ、指輪、長服などすべて用意していました。神は全能であり全知ですが、私たち子を、人間をはるかに超える愛で愛してくださっているのです。このお方を私たちは愛するのです。また同時にサタンをはるかに超える力ある神にあっては、たとえ放蕩を許されても、神の許しなしにサタンは私たちに手出しができません。絶対的な護りが、私たち子にあることを覚えておきましょう。

« 2017年7月 | トップページ