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2017年8月

2017年8月27日 (日)

神に不可能は無い

マタイ 19章16節
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 マタイ19、マルコ10、ルカ18の各章で扱われています。この富める役人でもある若者は、イエス様が来られるのを走り寄って「尊い先生、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか?」と尋ねています。今の私たちには、行いによって永遠のいのちを得ようとすること自体が方向違いであることを知っていますが、パリサイ派中心の当時では、これは当然の発想でした。しかし彼は律法を単に守るだけでは「永遠のいのち」を得られない、そんな感覚を持っていたと思われます。当時の律法中心の時代にあって、イエス様の権威がわかる数少ない正しい人でもありました。
 
 この人はマルコによればイエス様から「慈しまれ」た人物であり、ルカによれば律法を忠実に守っている風であっても、行いに疑問符のつく人として描かれています。この両福音書ともあなたには「まだ一つだけ欠けたこと」があると、ズバッと指摘されていますが、マタイでは「完全になりたいのなら」と道を諭すようにして答えられています。
 
 イエス様は彼がこの世の富に心を奪われていることを知っておられたので、すべての財産を売り払って貧しい人に施し、それから自分に従って来なさい」と言われました。人は神と世の両方に仕えることができません。彼にはこの問題があることがイエス様にはお見通しだったのです。ですから「律法をすべて守っています」と言いながら、財産を施して「隣人を自分のように愛せよ」の戒めは十分に守れていなかったのです。
 
 この人は結局富を捨てる事ができないので、悲しみながら去って行きました。人は完全にはなれず、罪が残るのです。ですから罪ある者が永遠のいのちを得ることは、「ラクダが針の穴を通る」ほど困難でした。この不可能を、イエス様が十字架によって解決されたのです。人にはできないことでしたが、神が可能にしてくださったのです。
 
 私たち罪人は十字架を信じることで、全くこれまで一度も罪を犯したことがないかのごとく一切赦され、それで聖霊さまが住まうことが可能となりました。この聖霊なる神の力よって、私たちは不可能だった神に聞き従う人生が可能となったのです。これは奇蹟中の奇蹟、なんという恵みでありましょうか。
 「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」とは恵みの道です。人間の力では不可能だった「神に従う」道が、行いではなく神の力、十字架によって開かれたのです。自分の力では到底得ることのできなかった「永遠のいのち」を私達は得ることができるようになったのです。

2017年8月20日 (日)

父の愛

ルカ 15章24節
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(死んでいたのに生き返り~放蕩息子の話)
 放蕩した弟息子の方が、兄よりはまだ見どころがある人間だったと私は思います。弟を「あなたの息子」と突き放して言い、「遊女に溺れて」と放蕩を具体的に指摘したのは、本当は自分も人一倍したかったことに違いない人間であったことを思わせます。兄には弟のように真の自分に気づき、悔い改めて立ち返る機会が遠いことでしょう。
 
父は自分の身代を食い潰すことがわかっていも、何も言わずに弟息子の要求通りに生前贈与を呑みました。さぞ苦いものだったと思いますが、そうすることしかできなかったのです。真の愛は束縛したり、まして支配するものではありません。それはサタンのすることです。父は悲しみながら離れ、去って行くことを受け入れました。私たち人間社会に起こる様々な問題、争いとか戦争、不幸はすべてこの視点から見ていく必要があると私は思われるのです。
 
弟息子は結局、相続をすべてお金に換え、遠くの異国の地で、おそらくは短期間に財産を使い果たします。遊女へはもちろんですが、この人なら恩義を感じてくれるだろうという人からも、忌み嫌われる「豚の世話人」をあてがわれるような薄情さでした。そして飢えに苦しんで豚の餌をも食べたいと思うほどの苦しみの最中、「我にかえった」のです。それはいかなる我でしょうか?大勢のしもべを従えた財産家の子息としてプライドがあったはずの弟息子でしたが、父の雇い人の一人になることを願って帰ることの決断でした。英語のKJVでは雇い人を「hired servant」とあります。これは日雇い奴隷のことです。家の奴隷は家族の内であり、食いっぱぐれることはありません。しかし日雇いはその保障はなく、最も惨めな最下層の労働者です。かつて主人であった弟息子が、それを覚悟して帰郷するということは、恥も外聞も捨て、一切のプライドを捨てて帰ると言うことです。最下層の奴隷の一人として、過去の栄光をうち捨てて、父のあわれみにすがるためでした。一言で言うと、「あわれまれるべき自分」でした。神の元に帰る私たちとは、あわれまれなければならない、惨めな我を知ることに尽きます。世的な自我が死んで、私たちは初めて自分の真の姿に気づくのです。
 
この弟息子を父は毎日毎日地境まででかけては、「まだかまだか」と案じつつ帰還を待っておりました。そして帰ってくることを信じて、指輪や良い服、履き物まで用意させておきました。そして誰よりも真っ先に見つけ、駆け寄り、ユダヤ人にとって最も忌むべき豚の臭いふんぷんの乞食姿の息子を抱き寄せ、接吻しました。それはまさに、狂ったように喜んだのです。弟息子が悔い改めの言葉を聞くか聞かないかの内に、父は指輪をはめさせて息子としての権利を与え、服を着させ、自由人としての履き物をはかせました。これが父の愛、私たちの天のお父様の真の姿です。なぜなら死んでいた息子が生き返ったのだから。
 
それで今、この世では生きていますが、神に愛されているのにその愛を受け入れていないという、死んでいるみなさん、この天の父の元に帰ろうではありませんか。神は愛です。この父の愛を受け入れ、立ち返りましょう。

2017年8月13日 (日)

永遠のいのちと御霊のからだ

ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
 
 さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
 ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
 
 一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
 
 イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
 
 するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
 

2017年8月 6日 (日)

父なる神の愛

ルカ 15章21節
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

人によっては、神は高い所から見下ろし、罪人の私たちを裁かれる恐い存在と思っている方もいますが、神の本質は愛です。意外にも神さまを理解するポイントは「支配」だと私は思います。
 
サタンの狙いは神が愛されている人間を一人でも多く支配し、自分が行かなければならないゲヘナ(永遠の地獄)へ道連れにすることです。彼らは神の計画を妨害する存在ですので、特にクリスチャンをゲットすることは大戦果です。ですから特に注意が必要です。
 
右図を参考にしてください。S
サタンは神のもの、つまり信じる者を奪おうとしますが、それに対し神は穏やかで慎み深く、私たちにズカズカと入られたりはしません。サタンは恐れや不安で人に侵入し、支配しようとします。ただ神がそれを許されるのは、私たちが真に悔い改めて、心から父のものになりたいと自由意志で願うことです。真に私たちを得たいと忍耐して待っておられるのです。
 
ルカ伝15章の放蕩息子の話は、この神の愛がよくわかるよう書いてあります。生前贈与など良からぬ意図を持って願う弟息子に、通常はあり得ないことですが、天の父は許されます。結局、放蕩の限りを尽くし、ユダヤ人にとって死にも値する豚の世話をし、その餌さえも食おうとするまで堕ちた息子が、ハッと我に返ったのです。「もう父の子でなくていい(それほど自分は父を裏切った)。これほどの恥辱は無いが、それでもただの使用人としてでも父の所に帰ろう」。この瞬間、父は愛する息子を真に得ることができたのです。人は自分のみじめさを知らなければ、真に悔い改めることができないと私は思います。すべてはそのために、あえて放蕩を父は許されるのです。
 
しかしまた父は、「早く帰ってこい」と地境をいつも見回ていたほど心を痛め、待ち続けていた存在でもありました。それだけで無く、息子が帰ってくることを固く信じ、指輪、長服などすべて用意していました。神は全能であり全知ですが、私たち子を、人間をはるかに超える愛で愛してくださっているのです。このお方を私たちは愛するのです。また同時にサタンをはるかに超える力ある神にあっては、たとえ放蕩を許されても、神の許しなしにサタンは私たちに手出しができません。絶対的な護りが、私たち子にあることを覚えておきましょう。

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