永遠のいのちと御霊のからだ
† ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
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