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2017年9月

2017年9月24日 (日)

心の一新によって

ローマ 12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 この12章の1節、「そういうわけで」とあるのは、前章にある、福音の恵みを本来受けるべきイスラエルの民がかたくなにされ、野生種のような異邦人が接ぎ木されて、すべての人々が十字架の恵みにあずかっていくことを指します。パウロはこの神の計り知れない知恵と計画のことを「神のあわれみのゆえに」と言い、続けて「あなたがたにお願いします」と懇願しています。懇願したように言いながら、最後は命令形で語られていますので、これは並の懇願ではなく、本当に心からの懇願であることが分かります。
 
 パウロの懇願とは何でしょう。この手紙の前半では教理的な信仰義認を述べましたが、後半のここでは信仰そのものを伝えたかったのです。ここで「心の一新」とか「(自分を)生きた供え物としてささげなさい」という言葉があります。大変あらましですが、これは要するに聖霊のバプテスマを受け、御霊に従って歩みなさいと言っているのです。
 
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」【ロマ12:1】の言葉によって、「よし、それではやってやるぞ」と頑張ってもみても、自己愛にたけた私たちの力では実行不可能です。同様に「心の一新によって自分を変えなさい」【ロマ12:2も実際には困難です。これらは神の計画によって自我が砕かれ、罪を心から悔い改めた神の時に実現するものです。ですから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、誰も誇ることができません。もし誇ることが許されるなら、それはどんなに自分が神に逆らって罪深い者であったか、それにも関わらず神がどんなにあわれんで愛してくださったかを誇ることになるでしょう。
 
 被造物の最大の罪は<高ぶり>です。最上位の大天使であったサタンがサタンになったのはこのためでした。人間もエデンの園で罪を犯したのは、聞き従わず、自分の肉の判断を優先した高ぶりのためでした。この12章であえて無きが等しい私達を神が選ばれたのは、「誇らせない」ためであり、これが最大の祝福、私たちが天への祝福となりました。
 皆さんもどうぞ振り返っていただきたいと思います。なぜあなたは神を信じようと思ったのでしょう。あなたの優れた知恵と力とで、神が神であることを突き止め、信じたのでしょうか。かえって神が与えてくださった弱さ、力の無さ、その謙遜こそ、私たちにとって神を信じ従うという最大の恵みになったのではないでしょうか。
聖書でパウロは言います。「誇るなら主を誇れ」。 アーメンでしょうか。

2017年9月17日 (日)

感謝の心を持つ人に

コロサイ人への手紙 3章15節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい

「少女パレアナ」~この文庫本はTV「愛少女ポリアンナ物語」の原作です。作者はエレナ・ポーター、訳者はなんと村岡花子です。精神病で過度の楽天主義、現実逃避の病をポリアンナ症候群と言うのだそうです。これは神を信じず、従って真の感謝をしらない人が、無理に「良いこと見つけ」をしようとしたためなのでしょう。
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なぜパレアナは感謝するのでしょうか、それは父からのプレゼントだったのです。妻を失い、今また父である自分が召されて行こうとした時、牧師の父が娘に託た最大のプレゼント、それが1テサ5:18「すべてのことについて感謝しなさい」であり、このコロサイ3:15の「感謝の心を持つ人になりなさい」だったのです。ですからこれは、この世での最大最上の、とっても大切なものなのです。
 
みなさんは先ほど、何曲も賛美を歌いましたが、私達がよく知っているマーリンさんは感謝と賛美の器でした。賛美は感謝から生まれてくる実の一つです。感謝のない賛美はある意味、生きていて人の心に響くものとはならないでしょう。また本当に感謝を神にするならば、それを隠すことができません。賛美がそうであるように、口から溢れてくるものがあります。神への感謝と喜び、囚われていた自分からの解放、絶大な恵みの数々が、自分の心から湧き上がって来るのです。賛美となってそれが口から溢れてくるのに時間はかかりません。もはや何も秘密はなく、蓋をしておくことができないのです。
 
そこで一つ押し奨めがあります。それはお一人おひとりが、自分の人生におけるこれまでの、悪かったこと、奥底にしまい込んで忘れていた過去、特に幼かった頃のつらい経験、理不尽だと思えたこと、傷ついたこと、許せなかったこと、恨んだこと・・・・そのすべてをありありと思い出し、許すこと、感謝することです。勿論これは、単に功利的な心でするのではなく、祈り、心から神に願った上で導かれたやっていただきたいのです。これは、お気づきにならなかったでしょうが、皆さんがいつまでもサタンの鉤に引っかけられてしまう原因なのです。放っておけば獅子身中の虫、自分自身をダメにするものなのです。どうか自分自身を神に取り扱っていただきたいと思います。

2017年9月10日 (日)

感謝!

1テサニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 感謝するということは、マーリンさんのこの群れでよく語られることです。よく地方で秋元牧師の移動にあたって、なぜかスピード違反で牧師が捕まりますが、この災いにも「か、かか、感謝しまーす」と告白するわけです。私達は悪い時にも感謝するように教えられています。
 直近の例で、私は横浜にかけての湾岸高速のスピード違反で捕まりました。これまででしたら苦虫を噛みつぶしたような感謝で終わるのですが、なぜか瞬間的に心からの「感謝」が湧きました。捕まって当然だと思いましたし、「ああ、これで事故を起こさなくて済んだ」と心から感謝してパトカーに乗り込みますと、おまわりさんが切符を切りながら「制限速度100kmでの20km違反にします」と言うではありませんか。「あれぇ」と思いました。なぜならパトカーから見える標識は80kmの標識でしたから。計測された所が境目だったかとも思いましたが、20キロ違反か40キロ違反かでは、裁判所行き赤切符になるかならならないかの天地の違いがあります。悔い改め、心からの感謝したので、それがおまわりさんたちの心証を良くし、微妙な判定にあたって実際的にも益にされたのだと私は思いました。感謝の思わぬ恵みです。
 
 今回のスロバキア・ウクライナ派遣で非常に語られたことは、この感謝です。感謝は感謝でも、悪いことを苦い胆汁を出しながら「感謝します」ではなく、本当に心から喜び感謝する感謝です。感謝の実質が問われている意味もあります。
 今回の派遣は新天新地に行きますので、霊の戦いがメインになると思いましたが、実際には集会奉仕と路上賛美という宣教がメインでした。キリスト教国ということもあってか、霊の戦いは一度たりとも行われなかったのです。これには神さまの素晴らしい計画があると感謝しました。
 
 さて短期宣教では各々に与えられた任務を全うするのが重要になります。私は聖会配信とブログ係、用心棒という三つの任務が与えられましたが、自主聖会がなくなり、配信は不要になりました。しかし実際に現地ではもう一つの重要な任務、秋元牧師の鞄持ちと椅子係が必要だったことです。参加メンバーが決まった時からこのことを覚悟していましたが、やるからには秀吉が信長の草履取りをしたように、徹底して感謝して仕えようと思いました。それでまさに移動に際しては、秋元牧師の手放せないリュックのように、いつも私が身近に控えている六日間になりました。
 
 実はこのことが非常に恵みになりました。もし私が荷物持ちを卑下して、俺はリュックじゃないぞ、と呟きながらしていたら、真逆の結果になっていたと思いました。実は派遣の当初はサブリーダーの体が「大丈夫だろうか?」と心配されましたが、使命を果たして行くに連れ、神さまから健康と力を与えられて行っているように見受けられました。
 またウクライナとの国境にあたっては、祈りが聞かれて、極めて短時間に通過することができました。訪れた先々の教会では、相手方の警戒がドアのように次々と開かれ解かれ、場所と時間が100%私たちに提供されていく、数々の主の手を見たのです。
 これらはごく身近に居たことで、単なる一部始終の目撃で終わらず、私の荷物の持ち主が自分の体のことを考えず、どんなに神さまに忠実で、かつ謙遜な人であるかが肌で分かる恵みに与ったのでした。みなさん、心からの感謝は素晴らしい恵みがその先にあるのです。

2017年9月 3日 (日)

目からうろこが落ちる

使徒 22章10節
私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
本日の聖書箇所は使徒の22章ですが、ここでパウロはエルサレムの人々に最後の語りかけをしています。
改めてここを見てみますと、いくつか気づくことがあります。全体としてはこの「目から鱗が落ちる」とはアナニヤが手を置いて神からの言葉を祈った通り、聖霊に満たされること、それは真実を隠していたものが取り去られ、正しく見えるようになるということを「鱗が落ちる」と言い表しているのです。
そうです、世の霊に囚われいる間は、正しく見えているようでいて実は見えていないのです。それはあたかも、目に鱗がある状態なのです。それが聖霊のバプテスマという、神の霊に満たされるなら、それまでの自分が目に鱗状態だったことを思い知るようになるのです。
また同時にアナニヤが「あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」とあるように、自分のいのちがどういう目的で生まれたのか、何の為にこのような人生を歩まされたのか、理解するだけでなく、はっきりと今後の目的意識を持つことになります。神にはすべてのことに目的があり、狂いなくそれは進むのです。
 
ですからみなさん、聖霊のバプテスマは信仰生活の基礎基本です。人は自分で自分を生んだのではありませんし、たとえ親であっても、どのような子にしようと、計画して造れるわけではありません。ただ子が与えられたのです。まして、神によって神を信じ、神の子とされた私達には、私達が容易には知り得ない神の計画があり、目的と使命があるのです。それを知り得るのはただ神だけであり、神に聞くしか方法はありません。聖霊と交わり、聖霊さまを通してでなければどうして人は自分への計画や使命を知り得ましょうか。
 
みなさん、生きている間に鱗、つまり自分が見ていること、自分が人生の決定権を持つ鱗を取り除かれ、正しい神の目で見る必要があります。パウロも神を熱心に信じる者でしたが鱗が取れるまでは、イエスの名に強硬に反対すべきだと(自分で)考え、実行し、外国に聞こえるほどクリスチャン迫害し殺害に加担しました。そればかりか捕らえた者に、神を汚すことまで言わせようとしたのです(使徒26:6~)。自我という鱗が取れるまでは、人は自分が良い、正しいと思うことをしますが、それはえてして恐ろしい間違いをすることが多いのです。一度しかない人生をそのように使ったとしたら、取り返しがつきません。
私はクリスチャンの試練困難は、パウロほど劇的ではないかも知れませんが、これは「目から鱗が取れる」過程だと思います。つらく、二度と嫌だと思われたとしても、これはその人が神に愛されているしるしなのであり、祝福なのです。またですからどんな試練困難であろうとも、徹底して感謝いたしましょう。神は次のように私達に求めておられます。
      
テサ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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