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2017年9月 3日 (日)

目からうろこが落ちる

使徒 22章10節
私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
本日の聖書箇所は使徒の22章ですが、ここでパウロはエルサレムの人々に最後の語りかけをしています。
改めてここを見てみますと、いくつか気づくことがあります。全体としてはこの「目から鱗が落ちる」とはアナニヤが手を置いて神からの言葉を祈った通り、聖霊に満たされること、それは真実を隠していたものが取り去られ、正しく見えるようになるということを「鱗が落ちる」と言い表しているのです。
そうです、世の霊に囚われいる間は、正しく見えているようでいて実は見えていないのです。それはあたかも、目に鱗がある状態なのです。それが聖霊のバプテスマという、神の霊に満たされるなら、それまでの自分が目に鱗状態だったことを思い知るようになるのです。
また同時にアナニヤが「あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」とあるように、自分のいのちがどういう目的で生まれたのか、何の為にこのような人生を歩まされたのか、理解するだけでなく、はっきりと今後の目的意識を持つことになります。神にはすべてのことに目的があり、狂いなくそれは進むのです。
 
ですからみなさん、聖霊のバプテスマは信仰生活の基礎基本です。人は自分で自分を生んだのではありませんし、たとえ親であっても、どのような子にしようと、計画して造れるわけではありません。ただ子が与えられたのです。まして、神によって神を信じ、神の子とされた私達には、私達が容易には知り得ない神の計画があり、目的と使命があるのです。それを知り得るのはただ神だけであり、神に聞くしか方法はありません。聖霊と交わり、聖霊さまを通してでなければどうして人は自分への計画や使命を知り得ましょうか。
 
みなさん、生きている間に鱗、つまり自分が見ていること、自分が人生の決定権を持つ鱗を取り除かれ、正しい神の目で見る必要があります。パウロも神を熱心に信じる者でしたが鱗が取れるまでは、イエスの名に強硬に反対すべきだと(自分で)考え、実行し、外国に聞こえるほどクリスチャン迫害し殺害に加担しました。そればかりか捕らえた者に、神を汚すことまで言わせようとしたのです(使徒26:6~)。自我という鱗が取れるまでは、人は自分が良い、正しいと思うことをしますが、それはえてして恐ろしい間違いをすることが多いのです。一度しかない人生をそのように使ったとしたら、取り返しがつきません。
私はクリスチャンの試練困難は、パウロほど劇的ではないかも知れませんが、これは「目から鱗が取れる」過程だと思います。つらく、二度と嫌だと思われたとしても、これはその人が神に愛されているしるしなのであり、祝福なのです。またですからどんな試練困難であろうとも、徹底して感謝いたしましょう。神は次のように私達に求めておられます。
      
テサ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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