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2017年10月

2017年10月29日 (日)

信じる信仰

ガリラヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 福音と信仰。この両者の関わりが今回開かれました。今日も重く暗い雨雲の下、長雨が降り続いていますが、ちょうど明日の朝、飛行機に乗って雲の上に出た時のようです。
 ズバリそれは右図です。十字架に集約されるように、神がいかに人を愛して下さったかを知らせるのが福音です。逆にその福音の恵みを受けた人が、神を心から愛することを信仰と言うのです。                   Photo_2
 神の愛、福音は普遍であって真理であり、それは変わることのないものです。しかし信仰は人によって濃い薄いがあるのは当然です。信仰の代表はパウロの本日の御言葉(ガラテヤ2:20)です「私はキリストとともに十字架につけられた」と言うのは、福音の絶大な恵みのことを指します。驚くべき神の知恵、どんなに周到な救いの計画であったことか、迫害者であったパウロは神の力と威光だけでなく、その徹底的な愛に圧倒されたことと思います。
 
 それで「もはや私が生きているのではなく」と、それまで持っていた自分自身の計画や価値観が崩壊し、まだ見てはいないが、自分への神の計画に乗り換えることに同意し(信仰)たのです。その土台は十字架の神の愛でした。そしてこの確かな証印は自分の直感とか確信ではなく、聖霊なる神の臨在そのものなのです。
 
 このように信仰とは理論でも推理でも思考でもない。滅ぶべき自分が確認され、救いを得させる十字架の福音を信じたことへの応答なのです。上述のように、信じるその意味がわかり、降参して神を自分の主として受け入れることです。つまりキリストを信じるとは、ただの受け入れではない。自分のいのちと全存在を神に渡すのですから、その変容は誰の目にも明らかなものとなるのです。
 
 別な言い方をすれば、信仰とはイエス・キリストの救いをただただ信じることです。それは理屈ではありません。理屈ではない、と言っても十字架に関する知識を否定しているわけではありません。ただ自分の理解を超えたこと、信じがたいことではあっても、「それでも信じる」と決断することを信仰だと言っています。

2017年10月22日 (日)

迷った一匹の羊

マタイ 18章12~14節
12:あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13:そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
学校の教室では毎日7時間くらい、教師は子どもたちと過ごします。教師から見て、子どもたちのグループがどうしても三つできてしまいます。一つは先生の机にいつも集まり、親しく交わってくれる子どもたち。次に授業に参加し一見忠実ですが、それは授業中だけ。上手に教師との関係を保っていく多くのグループ。最後に教師に反抗するごく少数の子どもです。
卒業式が終わった直後、担任と別れを惜しんで挨拶に来てくれる子どもは、いつも交わってくれていた子どもたちです。が、教師に反抗してくれた子どもも来てくれます。しかし大多数のつかず離れずのお利口さんたちは、蜘蛛の子を散らしたように校門から去って行くだけです。これは何を物語っているのでしょうか。プラスであれ、マイナスであれ、真剣に関わった関係が互いに残るということです。
 
私たちと神さまの関係も似たようなところがあります。私たちはこの血肉のある地上での財産や受けた栄誉、地位などは何一つ、天の神の国には持って行けません。ですからそれらは空しいのです。しかし「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛(1コリ13:13)」だと聖書は言っています。愛とは別な言葉で言い換えれば、<真剣に関わり合った関係から生み出されるもの>だと思っています。表面的には従っていても、距離を置いた関係、つかず離れずの関係からは愛は育ちません。
 
本日の聖書箇所でイエス様は、九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに行くと言われました。これは人間的に判断するなら、非常に愚かです。ご存知のように、囲いも石塀もない山に多くの羊を置いて行くならば、迷った羊以上にたくさんの羊を失う可能性が高い。しかも迷った一匹というのは、自業自得で不注意というか、聞き従いのない身勝手な羊かも知れません。にも関わらず、計算を度外視して捜すのが神様の愛だと言われているのです。この迷った一匹の羊を、私は教師に反抗する子どもによく重ね合わせます。捜し当てられた羊は、この体験を通して羊飼いの愛がよくよくわかり、まったく別人、いや別羊に変わったことと思います。魂を得る神の愛、これが最も重要な点です。
 
皆さん、神様との関係に距離をおいてはいけません。「アバ父よ」と幼子のようにすり寄るもよし、反抗して「どうしてこんな試練が許されるんだ」と叫ぶもよし。とにかく生きて働かれる神様と真剣に関わっていく! これがこの血肉の世で一番大切な神から愛される道なのです。天への宝、神への愛はその中で育まれ、醸成されて大きく育つのです。

2017年10月15日 (日)

復活・御霊のからだ

Ⅱコリント  3章18節
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。

「わたしたちはみな」「栄光から栄光へと」「主と同じかたちに姿を変えられ」とこの節はありますが、これを他の言葉で言い換えると「御霊のからだ」「復活のイエス様と同じからだ」ということになります。聖書は私たちの血肉の体が終わったり、または生きながらでも、再臨のキリストとお会いする時にこのようなからだになっていると繰り返し語っています(参照⇒Ⅰコリ15;l20、1コリ15:23、1コリ15:44)。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」のです。
 
つまり私たち自身の中に聖霊なる神の宮があるだけでなく、それは朽ちぬ御霊のからだとなって神の国に永遠に住むと聖書は言っているのです。私たちは実際に神が生きて働いておられることを現実に祈りや神のわざ……・いやし、しるし、奇蹟などを通して体験しています。ですからこの神の約束は、間違いない事実であることを知っているのです。
ところでプロテスタントの諸教会には、私たちのような聖霊さまへの態度と異なって、いやしも奇蹟もまったく信じない教会があります。三位一体の神を信じるという点は同じなのですが、残念ながら聖霊の働きがわかりません。わからないゆえに、私たちを「熱狂的」とか「おかしな教会」だと聖書ではなく自分の目で批判しているのです。私自身が二十年以上、そのような教会に居たのでこれは間違いありません。その私がこのような信仰へと導かれたということに、神の計画と大きな使命を感じさせられています。
 
私たちは血肉の体がある間に、何をしなければならないのか知っております。主に聞き従って、み心を行うことです。私たちが再臨の主にお会いした時、タラントのたとえ話が再現されることでしょう。タラントの額はそれぞれ異なっても、<聞き従って与えられた賜物を用いる>ことで主から同じお褒めにあずかるのです。ですから聞き従う教会である私たちの群れに導かれたということ、これは特別な恵みであると私は考えます。
 
どうかみなさん、御霊のからだで住む天のエルサレムを一緒に祈り求めましょう。天のエルサレムで一緒に神様の元で永遠に暮らしていきましょう。黙示録21-22章で天の御国の素晴らしさが描かれています。この教会にはその恵みにあずかる祝福があるのです。

2017年10月 8日 (日)

よりすぐれた賜物

Ⅰコリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
「あなたがたはよりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」というこの御言葉がメッセージなどで語られた時、みなさんは次のように受け取られる方が多いのではないでしょうか。すなわち、各自それぞれに示されている賜物、預言なら預言、いやしならいやしの賜物を「さらに本格的に与えられますように求めましょう」と。
 
ところが聖書をよく読んでみますと、パウロの意図はそうではないようです。ではどういう意味でしょうか。結論から申せば、よりすぐれた賜物とは「愛」です。預言、奇蹟、いやし、異言、異言の解き明かしと聖霊の賜物を列挙していますが、それらと共に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言っているようです。ですから「よりすぐれたもの」が伴わないなら13章1節以降で「もし愛がないなら・・・やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」「・・・何の値うちもありません」「・・・何の役にも立ちません」と繰り返し強調しているのです。
このことをさらにすぐ後の13節で「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と念を押しています。
 
キリストの再臨以降、私達クリスチャンは眠りから覚めて御霊のからだを与えられ、直接神さまのもとに居ることになります。その時には預言は必要でしょうか。異言も福音が全世界に伝えられており、外国語で話す必要はなくなっているだけでなく、おそらくは私たちは唯一の言語である神の言葉を用いるのです。もちろん御霊のからだは完全ですからいやしは必要ないのです。こうしてみると、神の国まで持って行けるもの、つまり永遠に残るものは「信仰・希望・愛」だということが分かります。その中でも聖書は特に「愛」だと言っています。それはなぜでしょう? 愛とは神さまとの関係性を表しているからです。

こうしてみていきますと、3章12-13節にあるキリストの土台の上に各人が建てる「金、銀、宝石、木、草、わら」の家を思い起こさせられます。聖霊の賜物は神からのプレゼントであって、神の計画されている伝道やリバイバルの為に私たちに預けられているものです。
誤解しないでいただきたいのは、この後14章1節にあるように、聖霊の賜物が重要であり、熱心に求めなければならないのです。なぜならこれから神の御心であるリバイバルをさらに推し進めて行くために、神は聖霊の賜物を用いられるからです。を求める私たちに注ぎ、が絶対にこれはみ心の働きと私たちの同胞への「祈り」と「愛」のものです。では、「愛」とはどのように理解し、受け止めたら良いのでしょうか。

私自身を見て思うのは、私には愛がない、あったとしてもほんとに乏しい者だということです。愛には神のアガペー、人間同士の友愛フィレオー、男女のエロスなどがありますが、聖書ではアガペーの愛を言っております。キリストに神の愛そのものを私たちは見ます。神の聖いひとり子イエスを、被造物で罪深い私たち人間の為に惜しまれず、そのいのちを差し出してくださった愛です。この愛は神から出ているのです(1ヨハネ4:8)。
また愛の諸性質については13:4-6に「寛容」「親切」「人をねたみません」「自慢せず、高慢になりません」などと列記してあります。ここで特に注意したいのは「ねたみ」です。
ねたみとは他人の優れた点に引け目を感じたり、うらやましく思ったりすることです。望んで得られないと分かれば憎んだりもします。同様に人の良い所を見るとひどく落ち込む人がいますが、これもねたみです。みなさん、神の愛は私たちの罪深さをすべて知っておられて、なおかつ愛してくださった無私の愛なのです。Img_8422

私は思います。神の愛のおすそ分けをいただくために必要なものは、「この己のどうしようもない罪深さがわかる」と言うことだと思います。どれほど赦されたかがわかれば、過去自分に対して起こされた心の傷、恨み、怒りなどというものが、逆に自分自身をどれだけ傷つけていたかがわかります。神の愛の大きさがわかり、そのあわれみを請う心が湧き上がります。こうして許しが進展します。神の絶大なご計画に心から賛同し、その一翼を担いたいと心から願うようになり、やがて神の愛を反射できるようになるのです。

神を愛する心が生じなかったら、賜物でいかに大きな働きをしても天への宝を積むことはできないでしょう。ここでパウロはよりすぐれた賜物として何を言いたかったのか、それはわかりますね。そうです、愛です。

2017年10月 1日 (日)

エルサレムの平和を祈る

詩篇 122篇6節
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」
本日10月の第1日曜日は「エルサレムの平和を祈る日」と定められており、世界各地のクリスチャンがこの趣旨に賛同し、各個人でまた教会で心を併せて祈っています。もともとこの趣旨はロバート・スターンズ牧師とジャック・ヘイフォード牧師が呼びかけて始まったもので、イスラエルの大贖罪日(ヨム・キップール)の日に合わせてこの日が設定されました。
 
Photo_310月の第1週に、聖書が命じている詩篇122篇6節の「エルサレムの平和のために」祈ることは、まず第1に神さまのご命令です。付け加えるなら、エルとは神または偉大なという意味、サレムとは平和を表し、名前からして平和の街なのです。
第二に世界の大部分を占める一神教の神の聖地であるエルサレムと言うのは超特別な場所であり、この地が平和であることがそのまま世界全体の平和と密接に結びついているという現実があります。第三に聖書の黙示録などによって、今のエルサレムの真上に天のエルサレムが着地するまで、エルサレムに関わっての動きがこれからの世界史の中心であるからです。
 
いろいろな出来事がこれから起こります。しかしどんなことがあっても神の言葉は変わることがありません。究極のところ真の平和の到来とは、ユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストがメシアであることを認める時、つまりみ心が成る時成就しますので、神の計画が成就するよう私達が執り成しの祈りを続けることが非常に大切なのです。祈りは神を動かし、計画を成就させる力があるのです。

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