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2017年10月

2017年10月 8日 (日)

よりすぐれた賜物

Ⅰコリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
「あなたがたはよりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」というこの御言葉がメッセージなどで語られた時、みなさんは次のように受け取られる方が多いのではないでしょうか。すなわち、各自それぞれに示されている賜物、預言なら預言、いやしならいやしの賜物を「さらに本格的に与えられますように求めましょう」と。
 
ところが聖書をよく読んでみますと、パウロの意図はそうではないようです。ではどういう意味でしょうか。結論から申せば、よりすぐれた賜物とは「愛」です。預言、奇蹟、いやし、異言、異言の解き明かしと聖霊の賜物を列挙していますが、それらと共に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言っているようです。ですから「よりすぐれたもの」が伴わないなら13章1節以降で「もし愛がないなら・・・やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」「・・・何の値うちもありません」「・・・何の役にも立ちません」と繰り返し強調しているのです。
このことをさらにすぐ後の13節で「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と念を押しています。
 
キリストの再臨以降、私達クリスチャンは眠りから覚めて御霊のからだを与えられ、直接神さまのもとに居ることになります。その時には預言は必要でしょうか。異言も福音が全世界に伝えられており、外国語で話す必要はなくなっているだけでなく、おそらくは私たちは唯一の言語である神の言葉を用いるのです。もちろん御霊のからだは完全ですからいやしは必要ないのです。こうしてみると、神の国まで持って行けるもの、つまり永遠に残るものは「信仰・希望・愛」だということが分かります。その中でも聖書は特に「愛」だと言っています。それはなぜでしょう? 愛とは神さまとの関係性を表しているからです。

こうしてみていきますと、3章12-13節にあるキリストの土台の上に各人が建てる「金、銀、宝石、木、草、わら」の家を思い起こさせられます。聖霊の賜物は神からのプレゼントであって、神の計画されている伝道やリバイバルの為に私たちに預けられているものです。
誤解しないでいただきたいのは、この後14章1節にあるように、聖霊の賜物が重要であり、熱心に求めなければならないのです。なぜならこれから神の御心であるリバイバルをさらに推し進めて行くために、神は聖霊の賜物を用いられるからです。を求める私たちに注ぎ、が絶対にこれはみ心の働きと私たちの同胞への「祈り」と「愛」のものです。では、「愛」とはどのように理解し、受け止めたら良いのでしょうか。

私自身を見て思うのは、私には愛がない、あったとしてもほんとに乏しい者だということです。愛には神のアガペー、人間同士の友愛フィレオー、男女のエロスなどがありますが、聖書ではアガペーの愛を言っております。キリストに神の愛そのものを私たちは見ます。神の聖いひとり子イエスを、被造物で罪深い私たち人間の為に惜しまれず、そのいのちを差し出してくださった愛です。この愛は神から出ているのです(1ヨハネ4:8)。
また愛の諸性質については13:4-6に「寛容」「親切」「人をねたみません」「自慢せず、高慢になりません」などと列記してあります。ここで特に注意したいのは「ねたみ」です。
ねたみとは他人の優れた点に引け目を感じたり、うらやましく思ったりすることです。望んで得られないと分かれば憎んだりもします。同様に人の良い所を見るとひどく落ち込む人がいますが、これもねたみです。みなさん、神の愛は私たちの罪深さをすべて知っておられて、なおかつ愛してくださった無私の愛なのです。Img_8422

私は思います。神の愛のおすそ分けをいただくために必要なものは、「この己のどうしようもない罪深さがわかる」と言うことだと思います。どれほど赦されたかがわかれば、過去自分に対して起こされた心の傷、恨み、怒りなどというものが、逆に自分自身をどれだけ傷つけていたかがわかります。神の愛の大きさがわかり、そのあわれみを請う心が湧き上がります。こうして許しが進展します。神の絶大なご計画に心から賛同し、その一翼を担いたいと心から願うようになり、やがて神の愛を反射できるようになるのです。

神を愛する心が生じなかったら、賜物でいかに大きな働きをしても天への宝を積むことはできないでしょう。ここでパウロはよりすぐれた賜物として何を言いたかったのか、それはわかりますね。そうです、愛です。

2017年10月 1日 (日)

エルサレムの平和を祈る

詩篇 122篇6節
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」
本日10月の第1日曜日は「エルサレムの平和を祈る日」と定められており、世界各地のクリスチャンがこの趣旨に賛同し、各個人でまた教会で心を併せて祈っています。もともとこの趣旨はロバート・スターンズ牧師とジャック・ヘイフォード牧師が呼びかけて始まったもので、イスラエルの大贖罪日(ヨム・キップール)の日に合わせてこの日が設定されました。
 
Photo_310月の第1週に、聖書が命じている詩篇122篇6節の「エルサレムの平和のために」祈ることは、まず第1に神さまのご命令です。付け加えるなら、エルとは神または偉大なという意味、サレムとは平和を表し、名前からして平和の街なのです。
第二に世界の大部分を占める一神教の神の聖地であるエルサレムと言うのは超特別な場所であり、この地が平和であることがそのまま世界全体の平和と密接に結びついているという現実があります。第三に聖書の黙示録などによって、今のエルサレムの真上に天のエルサレムが着地するまで、エルサレムに関わっての動きがこれからの世界史の中心であるからです。
 
いろいろな出来事がこれから起こります。しかしどんなことがあっても神の言葉は変わることがありません。究極のところ真の平和の到来とは、ユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストがメシアであることを認める時、つまりみ心が成る時成就しますので、神の計画が成就するよう私達が執り成しの祈りを続けることが非常に大切なのです。祈りは神を動かし、計画を成就させる力があるのです。

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