信じる信仰
✝ガリラヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
福音と信仰。この両者の関わりが今回開かれました。今日も重く暗い雨雲の下、長雨が降り続いていますが、ちょうど明日の朝、飛行機に乗って雲の上に出た時のようです。
ズバリそれは右図です。十字架に集約されるように、神がいかに人を愛して下さったかを知らせるのが福音です。逆にその福音の恵みを受けた人が、神を心から愛することを信仰と言うのです。
ズバリそれは右図です。十字架に集約されるように、神がいかに人を愛して下さったかを知らせるのが福音です。逆にその福音の恵みを受けた人が、神を心から愛することを信仰と言うのです。

神の愛、福音は普遍であって真理であり、それは変わることのないものです。しかし信仰は人によって濃い薄いがあるのは当然です。信仰の代表はパウロの本日の御言葉(ガラテヤ2:20)です。「私はキリストとともに十字架につけられた」と言うのは、福音の絶大な恵みのことを指します。驚くべき神の知恵、どんなに周到な救いの計画であったことか、迫害者であったパウロは神の力と威光だけでなく、その徹底的な愛に圧倒されたことと思います。
それで「もはや私が生きているのではなく」と、それまで持っていた自分自身の計画や価値観が崩壊し、まだ見てはいないが、自分への神の計画に乗り換えることに同意し(信仰)たのです。その土台は十字架の神の愛でした。そしてこの確かな証印は自分の直感とか確信ではなく、聖霊なる神の臨在そのものなのです。
このように信仰とは理論でも推理でも思考でもない。滅ぶべき自分が確認され、救いを得させる十字架の福音を信じたことへの応答なのです。上述のように、信じるその意味がわかり、降参して神を自分の主として受け入れることです。つまりキリストを信じるとは、ただの受け入れではない。自分のいのちと全存在を神に渡すのですから、その変容は誰の目にも明らかなものとなるのです。
別な言い方をすれば、信仰とはイエス・キリストの救いをただただ信じることです。それは理屈ではありません。理屈ではない、と言っても十字架に関する知識を否定しているわけではありません。ただ自分の理解を超えたこと、信じがたいことではあっても、「それでも信じる」と決断することを信仰だと言っています。
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