フォト
2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »

2017年11月

2017年11月26日 (日)

十字架~その愛Ⅰ

ヨハネ 14章6節 
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
    
今日のみ言葉の「わたし」とはイエス・キリストのことです。父のみもと、つまり天国に行くには「イエスを神の子とし、その十字架を信じなければ行くことができない」、他にどんな道もあり得ないと聖書は明確に言っています。
 
 使徒信条を見てみましょう。この簡潔な信仰告白での中心は、イエスは神であるという告白です。「聖霊によって処女マリヤから生まれた」ことは大奇跡であって罪の無い存在であることをあらわし、「三日目に復活し、昇天した」ことや「神の右に座し」「最後の審判で、すべての人類を審く」ことは、イエスが神であることにほかなりません。
 
 さて私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は神であり、唯一である」が三位一体の定義です。三位一体を氷・水・水蒸気とかにたとえようとしても、的確ではありません。それでこの言葉通りに私たちは三位一体覚えるので、三位一体を理解するには、逆説的ですが、三位一体を否定する非キリスト教の教えを見た方がわかりやすいと言われています。
 
 使徒が存在しなくなった3世紀ごろから、すでにキリストの神性をめぐっての三位一体が争点になっていました。4世紀のニカイヤ公会議で三位一体に決着しましたが、今日に至っても姿や形を変えて、キリスト教会は攻撃されています。
 モナルキア主義……神の唯一性を主張するあまり、イエス・キリストも聖霊も、一人三役のようなもので同じであると唱えました。逆にイエスは最高度の人間(キリストの神性を否定)であって、父なる神だけが唯一の神であると主張する偽グループが目立ちます。これは4世紀のアリウス派から連綿と続いています。もしイエスが神で無かったとしたら、十字架は空しく、私たちは今もなお罪の中に留まり続けていることになりますし、私たちは全員地獄行きです。
 
 このように他ならぬ創造者である神ご自身が私たちの罪を一身に引き受け、自ら贖いの小羊となってくださった、ここに神の愛があります。神ご自身以外に人類の罪の身代わりにふさわしい方はいません。イエスが神でなければ、私たちは未だに罪の中におり、絶望の底に居るのです。三位一体こそ、キリスト教の土台であり、真理であり、生命線なのです。

2017年11月19日 (日)

信ずべき書である理由

マルコ  11章22節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

信仰とは「御言葉を信じる」ことであり、聖書を神の言葉として信じ受け入れることです。神からの預言も、聖書によって吟味されなければなりませんので、聖書が神の言葉の中心です。クリスチャンの中に、聖書がよくわからない、あまり親しみを感じないという方がおられますが、それは祈り求めてくださって、ぜひ御言葉を心の支え、生活における日々の羅針盤として大好きになっていただきたいと思います。
 
 一つだけあえて言えば、聖書は神の言葉です。ですからただの書物ではありません。自分の理解力に頼らず、神に対し「聞く」という態度で接し、祈りと聖霊の手ほどきを求めて読んでいただければと思います。

 ルカ16章に金持ちと貧しかったラザロの話があります。そこでは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)とあるように、たとえどのような奇蹟やわざを見せられても、聖書を信じずして神を信じることはできないのです。信仰の前に、まず「聖書ありき」なのです。
 私が大学を卒業し、燃えるクリスチャンとして広島に帰った時の話です。広島という地域の大きな教会でしたが、その信仰はどうみても退廃していると思える教会がありました。私は不遜にも、教会内リバイバルを興そうとそこに飛び込んだ経験があります。しかし私はいくつかの難題を突きつけられることになりました。その最大のものは、聖書に対する人間中心で理解する態度でした。彼らは非常に論理的な命題を突きつけ、聖書の問題点、誤りとしか思えない所を指摘してきました。人間に過ぎない者が、神の言葉と思えるものを選び取捨選択していたのです。
 
 当時の記憶が定かでないので、今となってはそれがどこだったのか思い出せませんが、本日はそのように見える三箇所を挙げたいと思います。
 まず第一に「数字が間違っている」所です。ステパノが殉教することになった議会での証言として、出エジプトでの人数が「75人」とあります。しかし創世記46章ではこれが66、70人と出てきます。聖書は間違っているのでしょうか?もちろん神の言葉である聖書は間違ってはいないのですが、その説明をいたしましょう。(文量の都合上、この後と、第二、第三の例は割愛する) こういうわけで私たちは思慮の足りない自分の知恵や理解力だけで、神の言葉である聖書を判断しないようにしましょう。
「聖書は誤りなき神の言葉」です。

2017年11月12日 (日)

受けたと信じる信仰とは

マルコ  11章22~24節
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 
 学生時代、私には全然違うタイプの二人の友人がいました。一人は秋田の出身、もう一人は私の隣県の出身で社交的で明るく、街で通りがかりの女性にも気軽に声をかけるような、私には真似のできない人付き合いの良さというか、とにかく気がいい友でした。
 それぞれいいところがあったのですが、こと、言葉の信用という面ではかなり違いがありました。一例ですが、駅で会う待ち合わせの時間を決めても、秋田の友は余裕をもって来てくれるのですが、もう一人の方はアバウトだったのです。「やあやあ、すまんすまん」と言いいながら現れることが多くありました。一事が万事そういう感じだったので、自然、言ったこと約束したことでも、一人は言葉通りにそのまま100%受け取り、もう一人の方はどこか話半分に聞いてしまう風になってしまいました。
 
 このように、信じるということは相手によります。神様に対してもまったく同じことが言えるのではないでしょうか。神様は全能なるお方ですから時々、現実とまったく異なったこと、人間の思いをはるかに超えたこと・・・・ご自分の計画を語られます。それは本来常識を越えたことですから、まったく疑わずに信じ切ることはかなり困難です。しかし、神様が語られたことばは「(必ずその通りになると)受けたと信じる」のは、神様と交わっていて知っているからなのです。この方は十字架をもって私を愛し、決して私を裏切らない、実に真実なお方であるかをよく知っているからです。つまり交わりが決め手なのです。
 
 神様を知り、交わる入り口は、基本聖書です。聖書はすべて神の言葉で記述されているAll in Oneの完璧な書であり、何よりもまず、信ずべき書です。
 イエス様のたとえ話の中で、実話だと思えるラザロと金持ちの話があります。金持ちが死んで、炎熱地獄の中でラザロと会い、アブラハムに「ラザロを自分の家族のところに送ってください、そうすれば家族は自分と同じところに来なくてすむでしょう」と懇願します。しかしアブラハムは「いや、たとえ蘇ったラザロを送ろうとも、聖書を信じない者には無駄だ」と言います。聖書を信じず、疑う者はどんな奇跡も信じないと言っています。
 
 神を信じ、正しく交わるには、聖書が唯一のドアです。神がイエス・キリストの十字架によって私たちの罪を赦し、罪なき者とされた私たちに聖霊を与えてくださること、その聖霊なる神との個人的な交わりを通し、私たちは神様に自分を明け渡し、心から聞き従いたいという願いや絶対的な信頼、つまり受けたと信じる信仰が与えられ育つのです。

2017年11月 5日 (日)

2018年ガリラヤ湖畔 新年礼拝

マルコ  11章22~24節     (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 2018年度の御言葉は、マルコ11:22~24節です。この解説を私なりに致します。
 22 節でイエス様が言われた「神を信じなさい」ですが、信じること、つまり信仰とは、疑わないで信じよう・・・とすることではありません。それができると思うなら、その人は普通人ではありません。つまり普通はできないことなのです。
 
 ではどういう事になるかと言うと、その次の平行箇所である「受けたと信じる」ことなのです。これにはポイントがあります。つまり、どうしてまだ見ても得てもいない事を、すでに受けた、得ていると信じられるのか、です。これはこの世の人々で理性ある人、常識のある人々にとっては、一線を越えた「愚かなこと」です。
 
Photo
 しかし、聖書によれば、信仰とは神の言葉である聖書を信じることです。見えていないものを信じるのは、これは聖書の神の言葉を信じ、信頼しているからなのです。見えるものは滅び、見えないものは永遠です。一例ですがローマ8:28において、神を信じる者には「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のですから、現状がどう見えようとも、悪いこともすべて感謝し賛美して喜ぶ、ということになります。なぜなら神を信じているからです。そしてその現れとして「感謝」と「賛美」を香とし、24時間焚き続ける連続祈祷をしようということになります。
 
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
「信じて疑わない」とは人間である限り不可能です。そうではなく、一言で言えば、御言葉を信じ、「受けたと信じる信仰」です。これを実際にやりましょう。どんなに自分に疑いが生じたとしても、それに拠らず、最善をして下さる神さまの言葉を信じ、その祝福を逃さず、感謝をささげるわけです。結果、その信じた通りになります。
 
 年間主題と[感謝と賛美の連続祈祷]はリンクしており、今あるどんな問題でも感謝し、苦しんでいるゆえにあえて感謝し賛美をする。今の自分の目で現状を判断するのではなく、信仰の目で見るからこそできる感謝と賛美を、です。

« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »