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2018年1月

2018年1月28日 (日)

みそばに居させて下さい

詩篇 46篇1~2節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。
 
 私たち人間とは、単独ではなく社会的な存在です。また当然、人間関係が大きな作用を及ぼします。しかし人間の関係というものは一時のもので、永久ではありません。失われるものだことです。
 今年のNHK大河ドラマの西郷も、主君斉彬を失うとか、同志のために自らの命を幾度か断とうとした人物です。身近な例を私も知っております。母を癌で失った悲しみのあまり、生ける屍のようになった婦人の話です。この人は、母親を失って、その喪失感から立ち直れませんでした。私は最初、この人には幼く可愛い子ども達と夫がいましたので、しばらくすれば以前のように元気になるだろうと楽観していたのですが。
 
 ところが、葬儀の後も母の部屋に行っては「早く後を追って母の所に行きたい」と願ってばかりいたのです。日に日に痩せ細り、とうとう自分では立ち上がれなくなるほど衰弱し、病院に入退院を繰り返すようになりました。この後十数年してこの方は亡くなりました。この婦人はクリスチャンではあっても、神さまとの関係が問われるケースです。
 
 大切な人を亡くす、人生で築きあげた全財産を失う、まるで希望がなくなってしまった、そんな人生の大きな危機の時にこそ、信仰の真価が試されます。その人と、神様の関係があらわになります。私はお奨めします。こういう時こそ「神様!助けてェー」と祈り求め、叫んでください。サタンはそうはさせじと、「普段は自己中心なくせに、なんだ、困った時の神頼みか!恥ずかしくないのか」と自尊心に訴えたり、「お前のような者を、神が助けてくれるはずがない、無駄だ」と諦めさせようとします。しかしこれはサタンの策略であり偽りです。あなたを滅びに至らせ道連れにしいだけなのです。
 
 ですからそれを振り切って神に祈り、助けを叫ばなければなりません。プライドを捨て神に助けを求めたならば、神は確かに助けてくださり、あなたは救われるからです。どんなあなたでも愛して下さっているのです。これは私の体験でもあり、同じ証しをP牧師からも聞きました。神に助けを呼び求めること、これも信仰の一つなのです。
 
 次に神の助けを受けた後は、悔い改め、次からはそのようなサタンからの誹りを受けないようにしましょう。これすら自分の力でしようとするのではなく、神の力や助けを受け、忠実でみ心の信仰者となれるように祈るので。実はそのようにあなたがなれるよう、神は先ほどの試練を許されたのです。聖書に親しみ、神の「顔と顔をあわせて仰ぎ見れる」ように、「みそばにいさせてください」と心から願うようになる。そうなればサタンは私たちになかなか近づけなくなるのです。

2018年1月21日 (日)

本当に信じる (人にはできないことが神にはできる)

ルカ 18:章27節
イエスは言われた。「人にはできないことが、神には出来るのです。」
 
私の信仰生活は、「信じる」ということにおいて三つの段階があったと思います。
中学1年の時「狭き門」という本に出会って、背教的な小説にも関わらず、キリスト教の唯一の神が自分が求めている神だと分かったのですから不思議です。つまり私は伝道されたり、親類縁者や知人にクリスチャンとか近くに教会があるといった、何らかの福音に触れて信じた者ではありません。神はどのようにしても信じる者を起こすことができる、そういう例になると思います。
 分かってからと言うもの、教会に行きたくて仕方なく、捜し続けて、とうとう中三のクリスマスの機会をとらえて、家族の目を逃れながら、主に水曜日の聖書研究会通うようになりました。数人の七・八十代の老人に混じって、一人の高校生が3年間通い詰め、時々招かれていた牧師から聖書を学びました。その後大学生として上京するという春、牧師から受洗を勧められました。が、しかし、私は親から勘当されることを怖れて受けることができませんでした。
 このように神を求め、また信じてはいるのですが、恐れで告白と公に立てない段階が自分にありました。その恐れとは世に対してのもので、引いているかあるいは隠れクリスチャンとでも言い常置です。ふつうに教会に来ている人でも、自分の都合を優先して礼拝に参加したり、教会の奉仕など御体にはっきりと属せない人のことでもあります。
 
これに対し、信じる二つ目の段階を長く経験することになりました。本日の聖書箇所である「ある裕福な若人」もこの仲間だと思われます。彼はすごい金持ちであるだけでなく、たぶん能力があるからでしょう役人でも有り、品行方正というか、イエス様まで認められたほどの律法を守っているだけでなく、熱心に「永遠のいのち」を求めているという、まさに絵に描いたようなイスラエルの模範的な人でした。金持ちは神に愛され、祝福されている人とイスラエルの人々は思っていますから、差し詰め、神の国に入るならその1番手のような人だと思われていたことでしょう。
 この彼がただ一つ、「全財産を貧しい人に施し、そしてわたしに従って来なさい」というイエスの導きに従えず、悲しみながらイエス様の元から去って行きます。この若人は神を信じて求め、熱心に信仰者として立っているにも関わらず、自分に死ねない者の代表です。
 学生運動に挫折しユートピア幻想から目覚めた二十歳の私は悔い改めて洗礼を受け、いつも献身を考える熱心な信者となりました。クリスチャンホームを作り、真面目な信者としていつも熱心に教会の奉仕をして生活していました。この私が神に祝福されないはずがない、そう思っていましたが、聖書の「富める若人」と同じ、自分をに死ぬことができない信仰のままでした。
 そんな私の家族に大きな試練・・・・この世的には不幸が襲ってきました。妻が拒食症を発症したのです。私の家は絵に描いたように、この世的には不幸の坂道を転がって落ちていきました。職場での昇進を断念、マイホームを手放し、離婚をしなかっただけで家族もバラバラになりました。その上母のアルツハイマーもどんどん進行し、まるであらゆる希望から見放されたようになったのです。そして結局私は、ほとんど信仰も失うほど精神的にも追い込まれて行きました。

 しかし神が許された試練には守りがあります。試練がなければ私は次の第三段階の信仰までは絶対無理なことでした。破綻する寸前に私は神から自分の罪深さを示され、心から悔い改める中、神からの直接の語りかけを受けました。「あなたが私の方にその心を向けるのを、長い間待っていた。わたしはあなたを愛し、守ってきた神である」と。初めて神が生きておられることが分かった瞬間、私の人生は根本から変わりました。カリスマ派の信仰者となったのです。主の十字架はその直後、み体を求めて祈った時、神から導かれた群れでした。Photo
 この時の回心から私の人生の目的は、神のみ心を行うことになりました。もはや恐れや不安に支配されることはなくなりました。それはマタイの13章44節にある「宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」のような喜びでした。
 
  この信仰は、あの富める若人に対して「人にはできないことが、神にはできる」ように、確かに試練を通して神が与えてくださったもので、決して私の力や努力で得られたものではありません。神が「ラクダが針の穴を通る」よう、穴を巨大に大きくしてくださったか、あるいは私を針の穴のサイズに小さく変えてくださったのです。私は変えられて、新しく生まれました。真に自我から解放されました。ただ神のみをほめ称えます。

2018年1月14日 (日)

神の働きと恵みを見る時代

ヨハネ 5章4節
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 
 三日前の木曜日のケパドルブログ、「僕の体は洋服のようなものだから」でお伝えしましたが、八歳の子どもでも自分の体は一時のもので、この体を脱ぎ捨てて着る新しい永遠の体があることを知っています。そして今聖書の通読箇所が黙示録の6章、ちょうど患難時代の幕開け、イエス・キリストによって1から6までの封印が開かれた所です。
使徒で真っ先に殉教した兄のヤコブに対し、イエス様に愛された弟のヨハネは使徒最後の殉教者になりました。ヨハネは小アジアの監督であるとともに、未来を描く黙示録の著者になりました。
「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われて書いたこの黙示録、二千年の時を超えて、いよいよその時代が現実のものとして迫ってきたようです。イスラエルの復興がなり、何のことか分からなかったローマの復興が形を整えてきました。ロシアも中東に進出しています。これまで難解過ぎ、単なる形而上的なもの、暗喩的なものとされて来た黙示録が、これほど明らかに見えてきた時代はないのです。
 
 黙示録にある患難時代というものは、「定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる(ダニエル9:27)」という、サタンに属するものへの審きの時です。天変地異、戦争や飢饉が全世界を覆い、75億いる人類が前半の3、5年だけで1/4(残75%)と1/3(残50%)=半分も死ぬことになるという、超すさまじい時代となります。しかし空中再臨までの前半の時代は、患難とともに世界中での大リバイバルの時代となり、逆に神の力と誉れ、栄光が豊かに現され、霊とたましいの大収穫の素晴らしい時代となります。人は苦しみにあわないと神を求めないのは、変わらない真実です。この時、私たちクリスチャンは最高に用いられ、証しする機会となります。
 
また、空中携挙は「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、次に来るサタンが支配する後半の大患難時代から私たちが守られる意味もあります。ですから患難時代というものは、世の人々にとっては最悪、しかし私たちクリスチャンにとっては、代々のクリスチャンが待ち続けた<すばらしい時代>です。また怖れることはありません。「地上Photo_3に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、私たちは来るサタンの後半時代から守られますし、「あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません(1コリ10:13)」と約束してくださっています。神の言葉を信じましょう。
 
本日は聖書に即して書かれた「せかいのおわり」の巻末にある、三枚の図表を元にこの時代に起こることを学ンで参ります。   
・・・・・・以下は図表の講解・・・・・・
 ポイントを申し上げましょう、まず神を愛し、天国に期待しましょう。神がまず私たちを愛してくださったからです。次に携挙の三条件ができるようしっかりと祈って求めて行きましょう。これはみ心ですから、祈れば必ず与えられるのです。

2018年1月 7日 (日)

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙 5章3~5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 この三小節で何度も使われている言葉に、「世」と「(打ち)勝つ」という言葉があります。世とは現世とか世間など、肉的な世界のことを指します。それに対してovercomeという言葉を日本語聖書では「勝つ」と訳されていますが、winとかgain victoryではなく、原意は克服するという意味が強いのです。私の世代ではジョーン・バエズの歌で「We shall overcomes」をどうしても思い出す言葉です。
 
 以上から、世への戦いは困難ではあっても、私たちはこれを克服し、勝利するという意味になります。今からちょうど十年前、この群れの年間聖句にこの聖句が用いられました。その時にはあまり意味を考えることなしに、「そうだ、世が何だ!信仰こそ勝利」と喜んでいました。しかしこの度の聖書通読において、このみ言葉は文脈から理解すると、ここでの「世」とはある特定のことを指していたことが分かりました。何のことでしょうか?それは「この世」とかの外に対してのものではなく、なんと私たち自身の内側、兄弟を愛せない心そのものを突き刺していた言葉であることを。
 
「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」はイエス様が口を酸っぱくして命令されました。弟子たちであるペテロもヨハネも教会員に向かって「互いに愛し合いなさい」と同様に命令しています。この1ヨハ5章の「世」とは前章の終わりにある、「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています(1ヨハ4:21)」の命令は、同じ親からの子で兄弟であるのに、互いに愛せないはずがない、愛せない世の習わしに打ち勝って勝利すると信仰の名にかけて言っているのです。
 繰り返すと教会の兄弟を愛せず、憎むという神の命令を拒む者は、信仰を偽っている偽兄弟である(4:20)と断言しています。つまりこれは愛せない人を排斥するのではなく、なかなか兄弟を愛せない困難な自分の心に対し、信仰によって己自身の肉に戦いを挑むならば、必ず遂には克服し勝利し、心から愛せるようになる!と言う信仰の勝利を謳っていると理解するのが正しい受け取りになります。
 
 これを三段論法で要約すると、世の心では教会の兄弟姉妹と言ってもなかなか愛せない。しかし自分自身も神に愛され、子とされた者である。そして愛せない相手でもその同じ子とされた者である。と言うことは同じ愛する父を持つ兄弟そのものだ。兄弟ならたとえ兄弟けんかはあったとしても、最終的には同じ父を持つかけがえのない存在であって、愛し合えることは間違いない、ということになります。神を愛する者は、「愛し合いなさい」という神の命令を守る者となるのです。これを世に打ち勝つ信仰と言うのです。

2018年1月 1日 (月)

私たちの行き先

マタイ 11章12節  (1月1日特別礼拝)
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
私たちの年度はすでに三ヶ月目に入っていますが、暦の上では今日からです。そこでもう一度振り返って、前進をし続けたいと思います。

 アンテオケ教会の動画「クリスチャンのキーポイント」での最近作、「天国と地獄」がありました。これは過去から将来のへ私たちの行き先を表した、非常に重要なものでした。

当然ながら、これはすべて聖書を根拠とした、ほぼ確実なものです。 ところが他の教団、教派では不思議なことにこれまで多く触れられていません。その理由については長い間その中にいた者として、見当がつきます。これは実に残念であり、気の毒であるとすら思います。そしてこの群れに導かれた恵みを実感します。Photo_3
さて本題に戻りますと、図での「アブラハムのふところ」から新しいエルサレムに引き上げられる所に、少しだけ時間差があるように見えます。その理由に当たるのが本日の聖書箇所です。今から二千年前、イエス・キリストが来られて、いよいよ天国(新しいエルサレム)が近づいて来ました。これを待ち望んでいた人々は先を争ってこの天国に入ろうしました。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と刺激的な表現で述べているのです。

天国が攻められ、奪われそうになって危うい」という解釈は笑い話ですが、確かに飼い主たるイエス様が来られたことで、囲われていた羊の群れが朝焼けの門の出口に殺到し、朝一の草を先を争ってせめぎ合っているとの情景描写は、素晴らしい表現であったと思います。イエス様が十字架に架かり、復活された瞬間、新しいエルサレム、つまり天国が完成しました。少し時間差がある理由は、イエス様が黄泉に下られ、復活されるまでの三日間のことでしょう。お間違えのないように、天国は今はまだ見えないかも知れませんが、今の血肉ではなく、御霊のからだ、実際の体がある所なのです。
さて、十字架によって贖いが成し遂げられて以降、クリスチャンには天国へ三回のチャンスがあります。一つは患難時代の真ん中に起こる空中携挙です。まず最初に先に死んだ人たちが、次に生きながら私たちが御霊のからだに変えられて行きます。これは第七のラッパが鳴った瞬間に起こります。次に携挙に取り残されたクリスチャンは、引き続いて起こる後半の大患難時代にほとんど人が殉教します。七年にわたる患難時代は再臨のキリストで終わりになります。オリーブ山に再臨されたキリストが、エルサレムを取り囲んだすべての敵の軍を討ち滅ぼし、黄金門を通ってエルサレムに入城されることを地上再臨と言います。その時、最後に収穫という形でクリスチャンが二度目の天国入りをします。

私たちが直接関係するのは、キリストの地上再臨までですので、以後の千年王国や最後の審判、いのちの書の内容はメッセージではしましたが、この要約では割愛します。
いずれにしても、大切なのは天国への渇望であり、その信仰です。「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」とは、まさに信仰の現れです。私たちの群れでは携挙の三条件とも言いますが、畢竟それは「表裏ない忠実」さとか「聞き従い」という信仰が土台です。皆さん、天国へご一緒に参りましょう。私たちは地上では寄留者であり旅人です。最終的な目的地、天への道を共に励まし合い、支え合って参りましょう。

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