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2018年2月

2018年2月25日 (日)

あなたが決めておられるように

詩篇 119篇149節
あなたの恵みによってわたしの声を聞いて下さい。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。
 
「あなたが決めておられる」、このみ言葉は歌集「風のひびき」第三集に載った曲です。作った人に尋ねて、想像したように詩篇119篇のこの「あなたが決めておられる」ということばが曲作りの動機だったことを確認しました。この意味は、「私は自分の思う通りに生きたくありません。そうではなく、神様、あなたの計画に従って私を生かせてください」というもの。これは本当の神様を知らない人にとっては、実に奇異に思えることです。自分の人生を放棄し、他者任せにしたいなどと願う、そんなことはまともな人間のすることではないと思うのが当然です。
 
ここからが本番なのです。人間とは神によって造られた被造物です。造るからにはそれぞれに意図があって造られます。例えば陶器では同じ原料である土から、皿や茶碗、湯飲み、花瓶などに形作られます。みんな同じ一つのものであれば、意味がなくなります。しかし人は「隣の芝生はあおい」と言うように、Gods_plan_3 うらやむものです。それぞれに意図をもって造られた存在なのに、それには満足せず自分の目に良かれと思うものを求めます。しかしお皿がどんなにがんばってもコップのように水を蓄えることはできません。その結果、多くの人は不満の大合唱となっているのです。
 
神を信じた時、それまで出来損ないだと思っていた自分でしたが、そんな自分の為に十字架にまで架かってくださった神の深い愛がわかることで、人を羨み不満に思う心が消えて行きます。「私は神様が最善の意図をもって造ってくださった私」で、それが最善であることがわかったのです。神の愛ではじめて、自分を愛することができるようになるのです。ですから自分が生きたいようにしていたことを悔い改めた上で、自分と和解し、「あなたが決めておられるように、私を生かしてください」と、神に自分を捧げて生きる決心を神に捧げている歌です。と同時にそれが、自分にとって最善の人生であるという信仰の告白を捧げているとも言えるのです。

2018年2月18日 (日)

弱さを誇る

Ⅱコリント 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
 
 神様に用いられることは、多くのクリスチャンの願いです。しかしことは神が選んでくださることなのです。私のこれまでの体験から、この群れに集められた人全員が主が用いられる器だと思っています。なぜなら、この群れ、真の信仰の教会ですが、召されたみ心の人以外はなかなか留まり続けることができていないからです。
 
さて、私(たち)は罪を犯し続ける罪人です。このような者がどうやって主に用いられるのでしょうか。はっきりしていることは、主の訓練を経、主が建て上げてくださったのでなければ、かえって呪いを招いてしまうことです。自分自身の高慢という罪、これを除くことは自分の手ではできないのです。これが不十分なまま仮に用いられてしまうと、ほんのわずかでも神の栄光を自分の手柄にし、誇ってしまう恐れがあります。そんなことになる位なら、かえって用いられない方が良いのです。金持ちの門の前に置かれていたラザロの方がずっと良いのです。
 
しかし主をほむべきかな。神は人の心を変えるマジック・・・・・試練をお持ちです。聖書を見るなら、神は用いられるすべての器を例外なく試練を通されるのです。アブラハムは父の中途半端な聞き従いを見、75歳という分別盛りにして徹底して主に聞き従い続ける道を選びました。彼は約束の子、イサクさえ惜しまなかったのです。ヤコブやヨセフ、モーセ、ダビデに至っては、何を申しましょうか。一つだけ言えるとしたら、すべての人が異なった試練の道を通され、結果として祝福されたということです。人の親なら困難から我が子を守り切れなかったりするでしょうが、神にはそれがなく、間違いや失敗がないことです。つまり主の手にあっては神は、最善をなされるのです。
 
この試練がなければ、人は神を知り、その絶大な愛の前に自分を捨て、肉の心を捨て、主を第一にしてすべてを神の栄光に帰することができないのです。第Ⅱコリント12章9節で「私の力は弱さの内に完全に現れる」とあります。試練の中で人は弱くされますが、弱くされたならば人は神に頼ります。神はその時ご自分の力を現されて、その人を覆い、守られるので、かえって人はその時最強とされる(第Ⅱコリ12:9)のです。私たちは弱い時、主を呼び求めますから、逆に強いのです。この群れは聖書の信仰を受け取っていますから、試練を感謝し、喜ぶ信仰が与えられているのです。 
アーメンでしょうか。 

2018年2月11日 (日)

十字架を背負わされた男

マルコ 15章21節
そこへ、アレクサンドルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 
 皆さんの中には、自分が「もっとお金があったら」「この病がなかったら」などと思っておられる方はいませんか。今現在、大きな試練や困難に遭っている方もいらっしゃることでしょう。今日はそのような受け止め方はクリスチャンとしては間違っていること、そして神の祝福を十分に受けるにはどうしたらよいかを知っていただきたいと思います。
 
 つまりマイナスと思えるすべてには神の祝福の計画があり、それが自分の人間的な願いと異なっているので、結果として祝福を受け取れないことが最大の問題なのです。
 
 北アフリカのクレネから、はるばるエルサレムでの過越の祭を守りに来ていたシモンに、この典型例を見ることが出来ます。祭りの直前、街を歩いていたシモンは、ローマ兵を先頭にした何やら怖そうな一団に出くわしました。何だろうと見物の最前列に出てみると、十字架を担いでいた男が自分の目の前でよろよろと倒れてしまいました。するとローマ兵が自分を指して、代わりに「十字架を担げ」と理不尽にも言うのです。何の関わりもない自分が、どうして血でそまった重い十字架を担がなければならないのでしょうか。しかし逆らうことができない時代です。こうして不運にも十字架を担ぐことになったシモンでしたが、これがシモンへの人生を一変させ、大きな祝福を受けるできごとになりました。
 
 このクレネ人シモンの出来事は、共感福音書すべて載っていますが、マルコの福音書だけが「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」と簡単に付け加えています。つまり二人の息子は、わざわざ断る必要がないほど、当時の各教会に知られた人物になっていました。どういうわけで知られたのでしょうか。次のような経緯が容易に推察されるのです。
 
 前夜、ゲッセマネの園で祭司長たちによってイエス様が捕縛された時、弟子たちはみな主を見捨てて逃げ去ってしまいます。処刑の現場では婦人たちは遠くで見守っていましたが、イエス様の息づかいまで聞こえるほどの距離に居て、その最後をつぶさに見届ける証人となったのは、このシモンだけだったと想像されます(ヨハネ伝によれば、「愛する弟子」が居たとされています)。なんと十字架上のイエスの七つの言葉を直接聞いた証人として、このシモンが用いられたと推察されるのです。
 
 二人の息子は、父から聞いたイエスの最後の様子を、全世界への証人として語り継いだのでしょう。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません(ルカ14:27)」というイエスの言葉を、シモンは文字通り行った者となったのです。「理不尽」だと感じた不運には、素晴らしい祝福が用意されていました。

2018年2月 4日 (日)

クリスチャンの裁き

コリント 3章16節
 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 
 クリスチャンであっても、罪は犯しますので世の人と変わらないのですが、そのことを常に悔い改め、罪赦された罪人である点が大きな違いです。ただし罪を犯し続けることは神のみ心ではありませんから、神の恵みによって結果として罪から遠ざかることになります。大事なことは、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに十字架に架かってくださった事、それによって罪が赦され、全く無かった者として天国に入れると聖書にある(ローマ10:11-13)ので、これをしっかりと信じることがポイントになります。
 
  ところがクリスチャンにもあたかも「裁き」があるかのように書かれています(1コリ3:12-16)。ここで「(人の)建てた建物」とあり、これはクリスチャンが天の都へと期待して地上で積んだ「天の宝」を指していると思われます。11節によるとこれは神の土地、畑(土地の所有は神)に、イエス・キリストが土台なので、その人自身は必ず住めるのです。ただし、どんな家に住むのかは地上での宝の積み具合によるようです。
 
 各自が地上で不燃性の金、銀、宝石で宝を積むならば、天に行く時、それは燃えずに持って行けます。しかし人が地上で金、銀、宝石だと思っていても、天国には天国の基準があって、そのチェックが「火の中をくぐる」と言われているのです。ですからこれは例えて言えば、飛行機内への持ち込み荷物検査のようなものだと言えましょう。座れる席は確かに在って乗れるのですが、携行する荷物が判定され(裁かれ)るのです。
 
 ここで問題になるのは、何が燃えて何が燃えないものかということです。私の見方では、それは <御心を行ったかどうか> だと思われます。神のみ心は聖書に余すところなく書かれてあります。
「まず神の国と神の義とを求めなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。「あなた方は互いに愛し合いなさい」。「自分を捨て、自分の十字を負って神に従いなさい」・・・・などなど。
 
 これが実際には私たちの弱さがあって難しいわけですが、そのためにも十字架で死んでくださったのです。イエスキリストの死と復活の力により、聖霊が私たちに与えられました。私たちは弱く、不可能と思えることでも、神によって私たちは何でも出来るのです。

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