弱さを誇る
✝Ⅱコリント 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
神様に用いられることは、多くのクリスチャンの願いです。しかしことは神が選んでくださることなのです。私のこれまでの体験から、この群れに集められた人全員が主が用いられる器だと思っています。なぜなら、この群れ、真の信仰の教会ですが、召されたみ心の人以外はなかなか留まり続けることができていないからです。
さて、私(たち)は罪を犯し続ける罪人です。このような者がどうやって主に用いられるのでしょうか。はっきりしていることは、主の訓練を経、主が建て上げてくださったのでなければ、かえって呪いを招いてしまうことです。自分自身の高慢という罪、これを除くことは自分の手ではできないのです。これが不十分なまま仮に用いられてしまうと、ほんのわずかでも神の栄光を自分の手柄にし、誇ってしまう恐れがあります。そんなことになる位なら、かえって用いられない方が良いのです。金持ちの門の前に置かれていたラザロの方がずっと良いのです。
しかし主をほむべきかな。神は人の心を変えるマジック・・・・・試練をお持ちです。聖書を見るなら、神は用いられるすべての器を例外なく試練を通されるのです。アブラハムは父の中途半端な聞き従いを見、75歳という分別盛りにして徹底して主に聞き従い続ける道を選びました。彼は約束の子、イサクさえ惜しまなかったのです。ヤコブやヨセフ、モーセ、ダビデに至っては、何を申しましょうか。一つだけ言えるとしたら、すべての人が異なった試練の道を通され、結果として祝福されたということです。人の親なら困難から我が子を守り切れなかったりするでしょうが、神にはそれがなく、間違いや失敗がないことです。つまり主の手にあっては神は、最善をなされるのです。
この試練がなければ、人は神を知り、その絶大な愛の前に自分を捨て、肉の心を捨て、主を第一にしてすべてを神の栄光に帰することができないのです。第Ⅱコリント12章9節で「私の力は弱さの内に完全に現れる」とあります。試練の中で人は弱くされますが、弱くされたならば人は神に頼ります。神はその時ご自分の力を現されて、その人を覆い、守られるので、かえって人はその時最強とされる(第Ⅱコリ12:9)のです。私たちは弱い時、主を呼び求めますから、逆に強いのです。この群れは聖書の信仰を受け取っていますから、試練を感謝し、喜ぶ信仰が与えられているのです。
アーメンでしょうか。
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