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2018年3月

2018年3月25日 (日)

招かれた罪人

ルカ 5篇32節
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。


恵みは罪を知ること
良き君主は支配者でありながら民の声を丁寧に聞き、その訴えに耳を傾けます。しかしこれは、大変面倒で負担を強いられる困難なことです。しばしば私たちは、自分の体の暴君となって、自分の体の訴えを面倒くさがったり、丁寧に取り扱おうとはしません。例えば歯が痛いと訴えているのに、歯科医院は当然ですが、痛いからと遠ざけて、ますますひどくするようなものです。しかも一応の処置が済んでしまったら、その原因について反省せず、結局歯を失う人がなんと多いことでしょう。すべては体の声、訴えに耳を貸さないところから始まっているのです。

心の訴えも同じです。心がつらいとか、もう限界とか言っていることを聞こうとせず、無理な到達点を暴君のように強いているのではありませんか。これは己を高くしようとする高慢さのためです。サタンは自分も神のようになろうとして堕落しました。神によって造られたありのままの自分、本当の自分を受け入れないために起こるのが、心の病になることが多いのです。そんなに高望みをしなくても、私たちの永遠のいのちと国籍は天にあって、この世は単に仮住まいで寄留者に過ぎないのです。この世の価値観や欲望から解放されましょう。これは過ぎ去るものです。

本当の自分とは、愚かで実に罪深い存在です。高慢さがそれを受け入れては、向上できないと偽ります。切磋琢磨して己を磨かないと、自堕落で低いままだよと人をそそのかすのです。特に罪を認めてなったクリスチャンが、それでも真の自分を拒否して愛さないのは、そのように造られた天のお父様を拒むことと等しいことです。イエス様ご自身がこのように仰っておられます。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。

神はありのまま、罪深く弱い存在の私たち、病の人、力の無い子どもや女性、能力がなく貧しい人、このままで良いのです。この私たちを神は招いていてくださっているのです。罪がわからなければどうして悔い改めることができるでしょうか。それを十字架の愛で赦してくださる神に希望を見出せる私たちこそ、神に愛されその祝福を受ける存在なのです。自分に敵するのでなく、造ってくださった神に感謝し、かえって自分を愛することができることほど喜びはありません。

2018年3月18日 (日)

しもべは聞いております

Ⅰサムエル 3篇10節

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。

 主の十字架神学校では、60点が合格点です。神を信じるという意味で、クリスチャンは「永遠のいのち」「天のエルサレムに行ける」という合格60点は皆取っています。が、60点だけで、90点とか100点という、世での人生の祝福を受けている人は多くないのです。しかし私たちは100点満点を目指したいものです。もし私たちがこの世において、主の器として栄光を現すならば、「地上でつなぐなら、それは天においてもつながれる(マタイ18:18)」とあるような、天での恵みにもなるでしょう。

 では人生での最高の祝福を受けるクリスチャンと、60点の人との違いはどこにあるのでしょうか。それは神の言葉に聞き従う人生かどうか、という一点に集約されます。神に従う者を通して、神の栄光がその人を通して現されて行くからです。

 しかしどんなに神に従いたくとも、神の声を聞くことができなければ従えないのです。多くのクリスチャンは神の声を聞こうとせず、自分自身の声、つまり肉の心とその声に従って歩んでいます。禁断の実を食べたアダムと同じように、自分の判断で選び歩もうとしています。聖書とその御心を歩まないならば、残念ながら60点の人生となります。

 では、どうやって人は神の声、御心を知るのでしょうか?秋元牧師は次の3点をあげています。
1 吟味してですが預言を通して神の声を聞く受け取る。
2 (神が答えてくださるまで)徹底して祈る。最低日に1時間から2時間以上の習慣。
3 神からの語りかけである聖書の言葉。自分に適用できるものを受け取る。

 私はさらに自分の土台として、「思いを尽くし、心を尽くし、知力を尽くして神を(自分以上に)愛する」をあげたいと思います。神を恐れて従うのも間違いはないのですが、それよりも愛して従う方がどんなにか優っていることでしょうか。
  少年サムエルは神のことばを聞く人物となりました。彼の心には母ハンナを通して、神への感謝と喜びが注がれていたはずです。長年の祈りの結果である初子サムエルをナジル人として神に捧げる、これは想像を絶した愛の行為だからです。

  神はご自分を愛する者をどんなに愛してくださるか、それは大士師となったサムエルのように、人の想像を超えています。ご自分を現し語ってくださり、日々愛の中でその人を養ってくださいます。これは「間違いない!」のです。

2018年3月11日 (日)

サタンの罠(進化論)を打ち破る

Ⅰコリント 15章45節
聖書に「最初に人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
 
 今はクリスチャンでさえも、軽く「進化」と言う言葉を使います。聖書を自分流に解釈せずに神の言葉として受け取る信仰の人ならば、この言葉は慎重に使わなければなりません。進化論とは<eveolution theory>の訳語で、一言で言えば「生き物のそれぞれの主は、神によって個々に創造されたものでなく、極めて簡単な原始生物から突然変異という偶然と適者生存によって人類にまで進化してきた」と言う考え方です。私が高校生の時ぐらいまでは仮説としての取り扱いでしたが、今は学問上の絶対的な真理として扱われており、教師が進化論は誤りだとして教えないのであれば、公立学校では職を失うようです。
 
 しかしそもそもこの進化論というもの、とうてい学問とはいえない代物ものです。現状の目に見えるもので推測するしかないものですが、主をまたいでいた中間種というものの化石は何一つ発見されていません。北京原人やジャワ原人は猿でしたし、クロマニヨン人は人類でした。生きた化石と呼ばれるシーラカンスは、いまだにシーラカンスのままです。動物の胚は始めはほとんど同じで、次にそれぞれの種として成長していくというヘッケルの進化進化論成長図は、とんでもない作為絵でしたが、どんなに嘘だとわかっても教科書には載り続けるのです。根拠のないことを、頑として間違いないこととして受け取る・・・・これは世界は神が造ったという聖書を、断固拒否し受け入れたくない人々にとって、拠り所とするただ一つの考え、すでに一つの宗教であるというのが正しい見方でしょう。
 
進化論が世にはびこる以前は、聖書の創世記が唯一、世界の始まりといのちの誕生、罪の由来を説明するものでした。ですから進化論はそもそも聖書への反逆として誕生し、神を信じない人たちを正当化する為に増え広がってきたものです。もし進化論の言う通りでしたら、一人の人、アダムを通して入ってきた人間の罪の説明がつきません。さらに最後のアダムとしてのイエス・キリストの贖罪も無意味なものになってします。聖書は神の言葉ですから、人間が恣意的な解釈を施して、進化論にとりいったような解釈をするなら、神の言葉より自分を上に置いたことになります。世界は創世記が語る通り、六日で創造されたのです。進化論者の放射性炭素測定法での数値も、全世界を覆ったノアの大洪水を無視しています。私たちは信じない者ではなく、信じる者になりたいと思います。
 
 さらに聖書のこの点から見るなら、進化論の真の目的がよくわかります。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。【Ⅰコリ 15:22】
アダムから罪が人類に入り、人は死ぬ運命になりました。罪の原因は不従順にあり、進化論者たちは自分たちの不従順を偶然と生物の敵対しあう生存競争に置き換え、正当化しようとしているだけなのです。

2018年3月 4日 (日)

みこころを行う

マルコ 3章35節
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

 イエス様が公生涯に入られ、そのうわさがガリラヤ地方で広まるにつれ、心配した母マリヤや兄弟たちが様子を見に来るシーンがあります。そこでイエスは血縁の関係に優って「神のみ心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われました。「みこころを行う」ならば神様の兄弟姉妹なのです。では人は如何にしてみこころを行えるのでしょうか。もちろん神に聞いて、従うことです。しかし聞くことができなければ、どうやってみこころを知って行うことができるのでしょうか。
 イエス様の時代のユダヤ人は、みな神を信じていました。今の私たち日本人とは全く背景が異なります。そのユダヤ人でもみこころを行うことができていなかったようです。今のクリスチャンでも「みこころって、それって何?」とわからない方が多いようです。
さて、聖書では弟子たちがみこころを行おうとイエス様にずっと付き従っていました。現代では神を信じならば聖霊さまが内住されます。しかし内住されてる聖霊に聞こうとしないのであれば、みこころを行えるはずがありません。そこで私は、神が語ってくださると信じ、忍耐してそれを待ち望むことが一つの信仰であると思っています。その結果、聖霊のバプテスマのように神に直接触れられ体験する、すると信仰が揺るぎない事実となり、確信へと変わります。こうした体験による確信は、その人を根本から変え、神に用いられることになります。その一つの例を聖書から見ていきましょう。 
 マルコ伝5章です。イエス様が湖の対岸、ゲラサ人の地に行かれた際、豚二千匹になるほどのたくさんの悪霊を追い出してもらった人が書かれています。この地の人々はそれを見て恐ろしくなり、イエス様を追い出そうとしますが、イエス様は重大な証人をこの異教の地に置かれます。悪霊を追い出してもらった人です。この人がイエス様に「お供をさせてください」と願い出ました。神に触れられ、神の力を体験した人は、このように「みこころを行う」者に大転換するのです。しかしイエス様はそうではなく、次のような大使命を彼に託されました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と。
 
 みなさん、神が必ず自分に触れてくださり、自分はみこころを行う者になると信じてください。時が来たなら、神は最善のタイミングでご自分を現してくださり、確信を持って証人となります。信じ、祈り求め、待ち望みましょう。その時は必ず来るのです。

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