みこころを行う
✝マルコ 3章35節
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
イエス様が公生涯に入られ、そのうわさがガリラヤ地方で広まるにつれ、心配した母マリヤや兄弟たちが様子を見に来るシーンがあります。そこでイエスは血縁の関係に優って「神のみ心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われました。「みこころを行う」ならば神様の兄弟姉妹なのです。では人は如何にしてみこころを行えるのでしょうか。もちろん神に聞いて、従うことです。しかし聞くことができなければ、どうやってみこころを知って行うことができるのでしょうか。
イエス様の時代のユダヤ人は、みな神を信じていました。今の私たち日本人とは全く背景が異なります。そのユダヤ人でもみこころを行うことができていなかったようです。今のクリスチャンでも「みこころって、それって何?」とわからない方が多いようです。
さて、聖書では弟子たちがみこころを行おうとイエス様にずっと付き従っていました。現代では神を信じならば聖霊さまが内住されます。しかし内住されてる聖霊に聞こうとしないのであれば、みこころを行えるはずがありません。そこで私は、神が語ってくださると信じ、忍耐してそれを待ち望むことが一つの信仰であると思っています。その結果、聖霊のバプテスマのように神に直接触れられ体験する、すると信仰が揺るぎない事実となり、確信へと変わります。こうした体験による確信は、その人を根本から変え、神に用いられることになります。その一つの例を聖書から見ていきましょう。
マルコ伝5章です。イエス様が湖の対岸、ゲラサ人の地に行かれた際、豚二千匹になるほどのたくさんの悪霊を追い出してもらった人が書かれています。この地の人々はそれを見て恐ろしくなり、イエス様を追い出そうとしますが、イエス様は重大な証人をこの異教の地に置かれます。悪霊を追い出してもらった人です。この人がイエス様に「お供をさせてください」と願い出ました。神に触れられ、神の力を体験した人は、このように「みこころを行う」者に大転換するのです。しかしイエス様はそうではなく、次のような大使命を彼に託されました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と。
みなさん、神が必ず自分に触れてくださり、自分はみこころを行う者になると信じてください。時が来たなら、神は最善のタイミングでご自分を現してくださり、確信を持って証人となります。信じ、祈り求め、待ち望みましょう。その時は必ず来るのです。
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