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2018年4月

2018年4月29日 (日)

私を愛するか

ヨハネ 21節17節
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」
  ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛します か」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。 あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 本日の聖書箇所、ヨハネ21章でのペテロへ「わたしを愛するか?」の投げかけの真意を探ります。三度繰り返された投げかけは、完全数であり、決定的という意味があります。ということは、どういうことでしょう。
 結婚式の誓約「(夫・妻とすることに)誓いますか?」も、一度の「ハイ」で終わりです。三度も繰り返して要求したら、「相当疑っている?」と思われることでしょう。ではイエス様はそうなのでしょうか。主の意図がこの時ペテロはわからず、心を痛めました。「どうして何度も聞かれるのか?」と。

  私は半世紀近くいろいろな教会の経験があります。それから言えることは、私たちカリスマの教会には聖霊の注ぎが大きく、癒やしや奇蹟が頻繁に起こります。ですからサタンからの攻撃も強いのです。カリスマ教会は信徒を守り、秩序を維持するために、次第に権威・秩序を重んじるようになり、その窮屈さからか、普通の教会に見られる、日曜日は教会に、の大勢の中間的な信徒層が少なくなる傾向があります。

 これから日本にも世界にも、終末のリバイバルが注がれていきます。圧倒的な多数の人々が教会に押し寄せて来ますが、その時人間的な牧会をしていては、せいぜい数十人規模しか牧会できないことでしょう。ペテロに対し、三度の完全をもって「Do you love me ?私を愛するか」と問われたのは、「わたしイエスへの愛をもって、羊たちを愛しなさい。それはわたしを愛すること」でした。
 ご存知のようにペテロは三度も主を見捨てて逃げた群れのリーダーです。その彼に三度も問われたということは、二度・・・・は無いということだと、私は思わされています。果たしてこの後、ペテロの殉教の仕方を主が語られているので、符号が合います。・・・・つまり「本当に、命をかけて私を愛するように、羊たちを愛しなさい」が真意であると私は示されています。

 カリスマの教会牧師が、今ペテロと同じく主への愛を一番に置いているなら、その信徒たちもまた、主を愛することを一番にするはずです。つまり主を愛し、主の愛された者を何よりも一番に愛する」ことが、指導者である牧師の姿勢から全員に感染して広がる「奥義」を、このペテロの再召命の箇所から教えられたのです。

2018年4月22日 (日)

主を愛する人

ヨハネ 14節21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

 今日の聖書通読箇所ヨハネ伝の14章は、イエス様の遺言とでも言うべき重要な所です。ですからこの重みあるみ言葉をしっかり受け取りたいと思います。
 1節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 今はまだ私たちは世にありますから、どうしてもいろいろと心騒がせることから避けられません。しかし、私たちの心の王座は主のものです。どんな不安や心配があったとしても、神を信頼し平安を奪われないようにしましょう。「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します(マタイ6:34)」信じればその実質が現されていきます。
 この14章では四人の弟子(ペテロ・トマス・ピリポ・ユダ)が主にイエスに質問しています。私たちは彼らのおかげで、人間的な視点の過ちに気づくことができます。「主よ、何処へ?」と問うトマスやピリポに対して主は、三位一体の奥義、父と子とは一つであることを語られました。
 これに対し、ユダの質問は、どうして敵対するパリサイ人などに対してご自分が神であることを隠されるのかというものでした。前の水曜礼拝後、A姉妹が実に良い質問をされました…ヨハネ10章の33節で、詩篇82を元に「みこころを行う人は皆、神の子である」と、自分が神であることをすり替え、冒涜と詰め寄る彼らをおかわしになった所です。
 イスカリオテのユダとは別なユダですが、彼の背景として主に対しては別なメシア像、ローマの圧政からの解放と救いをもたらすメシアをイエスに期待していたと思われます。その彼に対して主は聖霊の恵みを語られました。一見するとこれは頓珍漢のように思えますが、そうではありません。主はユダの意図に対し、ご自分が受難のキリストであること、その受難とは全人類の罪を赦し、信じる者に聖霊を与えるためであることを説かれたのです。それ故、地に争いでは無く、「平安」を与え、残すと締めくくられたのです。
 そういうわけで最後は聖霊様の話になりました。聖霊様のことがここでは神ご自身によって具体的に描かれています。聖霊はまず私たちの「助け主」という存在です。   
①信じる者には聖霊の内住がわかり、いつまでも住まわれ見捨てられることはないこと。
②聖霊はすべてのことを教え、思い起こさせ、導かれる。
③その結果、主の言葉(互いに愛し合うこと)が聖霊の助けによってできるようになる。
 聖霊様を私たちにくださるために、主は十字架と復活、そしてペンテコステへの道を歩まれたのです。その聖霊様と、臨在を心を熱くして求めないわけがありましょうか。

2018年4月15日 (日)

渇いているなら

ヨハネ 7章37節
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 水というものは大切です。空気は地球上ならまんべんなくあっても、水の星であっても飲める淡水は片寄っています。人の体の2/3は水です。動物の命の源は植物ですが、植物こそ光と水で生きる存在です。それゆえ水のない砂漠は死の世界です。
ここで語られている水とは、その命の源の水に例えていますが、単なる水ではありません。「生ける水」と呼んでおられるものです。ではその生ける水とは何でしょうか。

生ける水、この水はどんなに素晴らしくても、渇きがない人にはその価値がわかりません。イギリスのことわざに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」とある通りです。では「渇き」とは何でしょうか。一言で言えば、それは罪意識です。ありのままの正しい良心と言いましょうか、人と我を比べてではない、幼い頃には皆が持っていた、本当の自分自身を正しく見つめる心です。自分を正当化せず、自分の自己中心性、欲深さ、すぐに高ぶる心、これらをまっすぐに見すえる時、自分の本性がどうしようにもならない罪深さがわかります。血肉のこの命の終わる時、その行く先は恐ろしく、動揺し、心から救いを求める飢え渇きであり、「助けてください」という叫びです。

昨日自転車で街を走っておりましたら、最近流行の個人葬の葬儀場がありまして、その看板に「お葬式…それは人生の卒業式」と大書きしてありました。死が卒業式であれば、いよいよ本番の大切な就職はどこにされるのでしょうか?学ぶだけで後は仕事をしないのであれば、何の為の学校なのでしょう。これは死後、恐ろしい地獄で苦しまなければならない人々を、まるで晴れ舞台の卒業式のようにして、明るく送り出そうという偽わりの看板なのです。

世の多くの人は神を信じないので、死後の世界も信じません。生きているだけがすべてなのです。確かにその通りで、血肉の体が滅ぶとしばらく眠りに着くことでしょう。しかし再び目覚めた時、それは最後の審判の時なのです。イエス・キリストを信じた人以外は審判後、滅びない永遠の体を与えられ、永遠に苦しめられる定めが待っているのです。
しかし神を信じ、イエス・キリストの十字架が自分のためだと受け入れた人は、神の恵みとあわれみを受け、すべてが赦され、天の神の国に引き上げられて救われます。それはその人が何か良いことをしたり、価値があったからではありません。多くの他の人のように信じないこともできましたが、それでも信じたからでした。これはただただ、神があなたを愛し、神のあわれみがその人に注がれた恵みなのです。
あわれみ深い神に、心からの感謝を捧げましょう。神がそれを喜んでくださいます。

2018年4月 8日 (日)

私たちは待ち望んでいる

ピリピ 3節20節

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」
 創造主が六日間で造られた天地万物は、人までも含め「見よ、それは非常に良かった(創世記1:30)」と言われた世界でした。ライオンや狼など現在の肉食獣もすべて草食でした。あらゆる動物が敵対せず、平和に共に暮らしていたのです。
 ところがアダムたちが罪を犯したために、地はのろわれ(創3:17)、額に汗して働かなければ地は実を結ばず、生き物には弱肉強食の世界になってしまいました。「のろい」という言葉は、日本では「たたり」とか「怨霊」のような意味合いで使いますが、聖書的には「罪の結果、または罪を犯し神の祝福を受けられなくなった」という意味になります。こののろいの世界とは、神の計画では魂を収獲するための暫定的な期間であって、それが今なのです。

 イエス・キリストという最後のアダムが罪というのろいから解放する「生かす御霊」となるため、世に下って来られました(1コリ15:45)。肉は滅びますが、御霊は永遠です。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、御霊が内住し、死は永久に追放されました。この解放は食事に端的に反映されました。当時も今も、ユダヤ教では食べ物に制限がありますが、キリスト教では食べ物のすべてに制限がありません。神がすべて食べて良いと、のろいから解放してくださったのです。

 このように神を信じていても、キリストを信じ受け入れていなければその恵みにあずかれません。三位一体の神を否定する異端は大なり小なり、のろわれた規定を守っています。キリスト以降、最後の審判までは、世は信じる者と信じない者とが混在する世界であり、そののろいが完全になくなるのは、キリストの空中再臨後の神の国であり、完全になくなるのは最後の審判後、地上が神の国になる時からです。

 クリスチャンは神の国を、今か今かと待ち望んでいます。のろわれるものが何もなく(黙22:3)、死も叫びも悲しみもない(黙示21:4)永遠の世界です。神が創造された「非常に良かった」世界の、さらにグレードアップした素晴らしい世界をです。

 この視点から、今私たちがいる罪というのろわれた世界をみたらどうなるでしょうか。確かに血肉の体がある困難な状況ですが、それにも関わらず私たちはのろいから解放される十字架の特別な恵みを受けました。そして罪を犯し続けることもできましたが、その中から神を選んだ故、その選択がなかった天使たちよりも、人である私たちがさらに高い位、神の子とされる特別な恵みを与えられる約束があります。私たちはとんでもない大きな恵みにあずかる約束の中にいると言うことがわかります。これは絶対に、血肉の命に代えても手離してはならないものです。

2018年4月 1日 (日)

神の国は何処に

ルカ 17節21節

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

 
神の国、天国とも言いますが、それはどこにあるのでしょう。多くの人は天、空の上にあると思っています。現代の空の上には、人工衛星や国際宇宙ステーションが飛び交っているのです。キリストの再臨ではドラえもんの「どこでもドア」のように、エルサレムはオリーブ山の上空の、とある空間がパカッと開いて、そこからイエス様と主の軍が降りて来るのかも知れません。ところが神の国は「ここにある」とイエス様ご自身が明言しておられる所があります。パリサイ人たちが考えもしなかった所、信じる人の心の中にです。これを聖霊の内住と申します。

 クリスチャンなら「聖霊の内住」を誰でも学んでいます。しかし、実際に聖霊のバプテスマの体験や、神の語りかけを受けたことがなければ、内住は単なる知識の一つです。実際、私は福音派に三十年居て、時に神を感じ、霊の躍動を感じはしても、「みこころを行う」「聞き従う」という聖霊の生きて働く信仰など聞き及びもしませんでした。また祈祷会をしても、祈りが答えられるということなど、期待もしないで続けていました。

 イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る(マタイ7:21)」とハッキリ語っておられます。ではクリスチャンでもみこころがわからない人は天の御国には入れないのか、と言うことですが、ここでの天の御国とは天のエルサレムのことであって、天国に行けないという意味ではない、最低でも諸国の民にはなると私は思っています。ただ天のエルサレムの門の中に入れるよう、祈り続けて行くことだと思います。

 さてクリスチャンは、聖霊様が内住されているのですが、最初はビギナーズラックというか、すごく語ってくださったり、祈りを聞き届けてくださる段階があります。しかしそれが時間と共に薄れて行って、やがて聞こえなくなったと、がっかりする人を見受けます。しかしそれは、神様がその人を立て上げようとしておられるのです。子どもが少し成長し、ある程度聞き分けられるようになったら、自律できる人間となるために、我慢することや、何よりも聞き分け、従うということが大切です。自分の肉の心を見分け、父のみこころを行いたいという心を、神は試練を通して育ててくださるのです。

 ですから許された試練は、すべてが最終的には益となりますので、私たちはすべてを感謝するのです。教会も会堂が開かれるという段階があり、今現在、会堂をたたむという段階にありますが、これら一つ一つが益に変えられて行き、大きく成長する土台になって行くのです。みなさん、感謝です。

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