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2018年4月

2018年4月 8日 (日)

私たちは待ち望んでいる

ピリピ 3節20節

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」
 創造主が六日間で造られた天地万物は、人までも含め「見よ、それは非常に良かった(創世記1:30)」と言われた世界でした。ライオンや狼など現在の肉食獣もすべて草食でした。あらゆる動物が敵対せず、平和に共に暮らしていたのです。
 ところがアダムたちが罪を犯したために、地はのろわれ(創3:17)、額に汗して働かなければ地は実を結ばず、生き物には弱肉強食の世界になってしまいました。「のろい」という言葉は、日本では「たたり」とか「怨霊」のような意味合いで使いますが、聖書的には「罪の結果、または罪を犯し神の祝福を受けられなくなった」という意味になります。こののろいの世界とは、神の計画では魂を収獲するための暫定的な期間であって、それが今なのです。

 イエス・キリストという最後のアダムが罪というのろいから解放する「生かす御霊」となるため、世に下って来られました(1コリ15:45)。肉は滅びますが、御霊は永遠です。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、御霊が内住し、死は永久に追放されました。この解放は食事に端的に反映されました。当時も今も、ユダヤ教では食べ物に制限がありますが、キリスト教では食べ物のすべてに制限がありません。神がすべて食べて良いと、のろいから解放してくださったのです。

 このように神を信じていても、キリストを信じ受け入れていなければその恵みにあずかれません。三位一体の神を否定する異端は大なり小なり、のろわれた規定を守っています。キリスト以降、最後の審判までは、世は信じる者と信じない者とが混在する世界であり、そののろいが完全になくなるのは、キリストの空中再臨後の神の国であり、完全になくなるのは最後の審判後、地上が神の国になる時からです。

 クリスチャンは神の国を、今か今かと待ち望んでいます。のろわれるものが何もなく(黙22:3)、死も叫びも悲しみもない(黙示21:4)永遠の世界です。神が創造された「非常に良かった」世界の、さらにグレードアップした素晴らしい世界をです。

 この視点から、今私たちがいる罪というのろわれた世界をみたらどうなるでしょうか。確かに血肉の体がある困難な状況ですが、それにも関わらず私たちはのろいから解放される十字架の特別な恵みを受けました。そして罪を犯し続けることもできましたが、その中から神を選んだ故、その選択がなかった天使たちよりも、人である私たちがさらに高い位、神の子とされる特別な恵みを与えられる約束があります。私たちはとんでもない大きな恵みにあずかる約束の中にいると言うことがわかります。これは絶対に、血肉の命に代えても手離してはならないものです。

2018年4月 1日 (日)

神の国は何処に

ルカ 17節21節

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

 
神の国、天国とも言いますが、それはどこにあるのでしょう。多くの人は天、空の上にあると思っています。現代の空の上には、人工衛星や国際宇宙ステーションが飛び交っているのです。キリストの再臨ではドラえもんの「どこでもドア」のように、エルサレムはオリーブ山の上空の、とある空間がパカッと開いて、そこからイエス様と主の軍が降りて来るのかも知れません。ところが神の国は「ここにある」とイエス様ご自身が明言しておられる所があります。パリサイ人たちが考えもしなかった所、信じる人の心の中にです。これを聖霊の内住と申します。

 クリスチャンなら「聖霊の内住」を誰でも学んでいます。しかし、実際に聖霊のバプテスマの体験や、神の語りかけを受けたことがなければ、内住は単なる知識の一つです。実際、私は福音派に三十年居て、時に神を感じ、霊の躍動を感じはしても、「みこころを行う」「聞き従う」という聖霊の生きて働く信仰など聞き及びもしませんでした。また祈祷会をしても、祈りが答えられるということなど、期待もしないで続けていました。

 イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る(マタイ7:21)」とハッキリ語っておられます。ではクリスチャンでもみこころがわからない人は天の御国には入れないのか、と言うことですが、ここでの天の御国とは天のエルサレムのことであって、天国に行けないという意味ではない、最低でも諸国の民にはなると私は思っています。ただ天のエルサレムの門の中に入れるよう、祈り続けて行くことだと思います。

 さてクリスチャンは、聖霊様が内住されているのですが、最初はビギナーズラックというか、すごく語ってくださったり、祈りを聞き届けてくださる段階があります。しかしそれが時間と共に薄れて行って、やがて聞こえなくなったと、がっかりする人を見受けます。しかしそれは、神様がその人を立て上げようとしておられるのです。子どもが少し成長し、ある程度聞き分けられるようになったら、自律できる人間となるために、我慢することや、何よりも聞き分け、従うということが大切です。自分の肉の心を見分け、父のみこころを行いたいという心を、神は試練を通して育ててくださるのです。

 ですから許された試練は、すべてが最終的には益となりますので、私たちはすべてを感謝するのです。教会も会堂が開かれるという段階があり、今現在、会堂をたたむという段階にありますが、これら一つ一つが益に変えられて行き、大きく成長する土台になって行くのです。みなさん、感謝です。

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