渇いているなら
✝ヨハネ 7章37節
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
水というものは大切です。空気は地球上ならまんべんなくあっても、水の星であっても飲める淡水は片寄っています。人の体の2/3は水です。動物の命の源は植物ですが、植物こそ光と水で生きる存在です。それゆえ水のない砂漠は死の世界です。
ここで語られている水とは、その命の源の水に例えていますが、単なる水ではありません。「生ける水」と呼んでおられるものです。ではその生ける水とは何でしょうか。
生ける水、この水はどんなに素晴らしくても、渇きがない人にはその価値がわかりません。イギリスのことわざに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」とある通りです。では「渇き」とは何でしょうか。一言で言えば、それは罪意識です。ありのままの正しい良心と言いましょうか、人と我を比べてではない、幼い頃には皆が持っていた、本当の自分自身を正しく見つめる心です。自分を正当化せず、自分の自己中心性、欲深さ、すぐに高ぶる心、これらをまっすぐに見すえる時、自分の本性がどうしようにもならない罪深さがわかります。血肉のこの命の終わる時、その行く先は恐ろしく、動揺し、心から救いを求める飢え渇きであり、「助けてください」という叫びです。
昨日自転車で街を走っておりましたら、最近流行の個人葬の葬儀場がありまして、その看板に「お葬式…それは人生の卒業式」と大書きしてありました。死が卒業式であれば、いよいよ本番の大切な就職はどこにされるのでしょうか?学ぶだけで後は仕事をしないのであれば、何の為の学校なのでしょう。これは死後、恐ろしい地獄で苦しまなければならない人々を、まるで晴れ舞台の卒業式のようにして、明るく送り出そうという偽わりの看板なのです。
世の多くの人は神を信じないので、死後の世界も信じません。生きているだけがすべてなのです。確かにその通りで、血肉の体が滅ぶとしばらく眠りに着くことでしょう。しかし再び目覚めた時、それは最後の審判の時なのです。イエス・キリストを信じた人以外は審判後、滅びない永遠の体を与えられ、永遠に苦しめられる定めが待っているのです。
しかし神を信じ、イエス・キリストの十字架が自分のためだと受け入れた人は、神の恵みとあわれみを受け、すべてが赦され、天の神の国に引き上げられて救われます。それはその人が何か良いことをしたり、価値があったからではありません。多くの他の人のように信じないこともできましたが、それでも信じたからでした。これはただただ、神があなたを愛し、神のあわれみがその人に注がれた恵みなのです。
あわれみ深い神に、心からの感謝を捧げましょう。神がそれを喜んでくださいます。
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