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2018年4月22日 (日)

主を愛する人

ヨハネ 14節21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

 今日の聖書通読箇所ヨハネ伝の14章は、イエス様の遺言とでも言うべき重要な所です。ですからこの重みあるみ言葉をしっかり受け取りたいと思います。
 1節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 今はまだ私たちは世にありますから、どうしてもいろいろと心騒がせることから避けられません。しかし、私たちの心の王座は主のものです。どんな不安や心配があったとしても、神を信頼し平安を奪われないようにしましょう。「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します(マタイ6:34)」信じればその実質が現されていきます。
 この14章では四人の弟子(ペテロ・トマス・ピリポ・ユダ)が主にイエスに質問しています。私たちは彼らのおかげで、人間的な視点の過ちに気づくことができます。「主よ、何処へ?」と問うトマスやピリポに対して主は、三位一体の奥義、父と子とは一つであることを語られました。
 これに対し、ユダの質問は、どうして敵対するパリサイ人などに対してご自分が神であることを隠されるのかというものでした。前の水曜礼拝後、A姉妹が実に良い質問をされました…ヨハネ10章の33節で、詩篇82を元に「みこころを行う人は皆、神の子である」と、自分が神であることをすり替え、冒涜と詰め寄る彼らをおかわしになった所です。
 イスカリオテのユダとは別なユダですが、彼の背景として主に対しては別なメシア像、ローマの圧政からの解放と救いをもたらすメシアをイエスに期待していたと思われます。その彼に対して主は聖霊の恵みを語られました。一見するとこれは頓珍漢のように思えますが、そうではありません。主はユダの意図に対し、ご自分が受難のキリストであること、その受難とは全人類の罪を赦し、信じる者に聖霊を与えるためであることを説かれたのです。それ故、地に争いでは無く、「平安」を与え、残すと締めくくられたのです。
 そういうわけで最後は聖霊様の話になりました。聖霊様のことがここでは神ご自身によって具体的に描かれています。聖霊はまず私たちの「助け主」という存在です。   
①信じる者には聖霊の内住がわかり、いつまでも住まわれ見捨てられることはないこと。
②聖霊はすべてのことを教え、思い起こさせ、導かれる。
③その結果、主の言葉(互いに愛し合うこと)が聖霊の助けによってできるようになる。
 聖霊様を私たちにくださるために、主は十字架と復活、そしてペンテコステへの道を歩まれたのです。その聖霊様と、臨在を心を熱くして求めないわけがありましょうか。

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