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2018年5月

2018年5月13日 (日)

試練とみ言葉

使徒10節13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

  本日はⅠコリ10章13節の後半の<脱出の道>を示されました。では試練に、どんな脱出の道があるのでしょうか。

試練はたとえ辛くても、天の喜びです。つぎのみ言葉があります 「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子(実子)ではありません。(へブル12:8)」 つまり、神の子としてくださっていることの証明なのです。

とは言え、確かにその渦中にある時はこんな余裕はない。私自身にも経験から言っても、鞭打たれているその痛みに「う、うれしいですーっ」とは、言えるものではありません。
脱出の道とは「どうしてこの苦しみが自分に許されて、この終わりがいつ来るか」、という理由がわかり、希望があることです。多くの試練はただ一つのことを目的としています。それは「自分の罪がわかって悔い改める」ことです。深刻な自分の罪がわからなければ、人は心から悔い改めることができません。十字架がまさしく自分の罪のためであったと100%受け取れなければ、十字架の神の愛もわからないし、聞き従ってみこころを行おうとは思わないことでしょう。けれども問題が一つ、理由とかいつまでは神様に聞くしかないことです。ですから熱心に主に期待して祈ってください。神は真実な方ですから、必ず答えてくださいます。

さて昨夜三本松牧師のお父様の話が紹介されました。退職後、野菜作りを始められたお父様は、野菜作りを勉強され、理想的な土作りから毎日の水やりまで、それは丹精込めて育てられたそうです。しかし結果は、虫がつきまとい、根腐れを起こし、収獲しても味がイマイチだったそうです。そこで野菜作りの先輩に教えを請うと、甘やかして大事にし過ぎだったと。そこで肥料は最低限にし、水やりは枯れそうな寸前まで控える。すると野菜は「これじゃいかん」と頑張りだし、虫を寄せ付けず、わずかな水をしっかりと取り込み、せめて子孫だけは残そうと、自分の身を捨てても次代に託すように熟成した実をならせるのだそうです。

人間も同様です。神は私たちの限界をご存知ですから、必ず護ってくださいます。枯れることはありません。私たちを通してすばらしい実をつけさせようと鍛えてくださっているのです。神を信頼しましょう。

2018年5月 6日 (日)

聖霊のちから

使徒 1節8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 久しぶりにテニスシューズを洗った時のことです。洗ったバケツの底にたくさんの砂が残っているではありませんか。砂場のようなコートで履いていたので、洗えばたくさんの砂が出るのは当然です。続けて二回、三回と洗いましたが、砂は少なくなっても出続けました。それから何度洗ったことでしょうか、減りはしても、砂は完全になくなりません。とうとう七度目ぐらいであきらめました。あきらめた瞬間、この砂とは私の罪のことである、と示されたのでした。

ローマ6章22節に聖潔(せいけつ:holiness)という言葉が出てきます。これは、聖化とも言い、神を信じる者が罪から離れ、徐々に聖別されていくことを指しています。しかし恵みによってたとえ清くなれたとしても、血肉の体の状態では生涯、罪と関わりを断つことができないという示しでもありました。

世にある限り人は罪から逃れられない、このことは天への希望をさらに抱かせますし、常に罪人として謙遜であるべきことを学ばせてくれます。もし自分がかつての罪から少しでも遠ざかることができていれば、それは100%自分の力ではなく、神のあわれみによって与えられた聖霊の力によるものです。私たちは自分ではなく、聖霊様を証するのです。清められたことを少しでも自分の努力の結果だとしたり、聖くなったと思い上がったりすると、そこにサタンが入ることを忘れてはなりません。第一回伝道旅行でのこと、リステラでゼウスの神々としてバルナバとパウロが崇められようとした時(使徒14章)、パウロたち二人が自分の衣を裂いて群衆の中に飛び込んで、「自分たちも同じ人間です」と言う叫んだのはこのためでした。
美わしの門でペテロたちが足の不自由な人に奇蹟を行いました。これは聖霊が二人に示し、不思議としるしを行わせのです。彼らは一見して「癒やされるのにふさわしい信仰がこの男にある」とはわかりませんでした。ただ神に示され、行ったのです。これは聖書には書いてはありません。しかしそのことが私に示されています。パウロたちもリステラで叫んだように、私たちは「聖霊の働き」の証人に過ぎません。

すべての栄光は神にあります。私たちはその証人として用いられるのです。証人が神の栄光を奪って自分の手柄にしてはいけません。どんな些細なことであってもです。私たちは罪人ではありますが、わずかでも良いこと、すぐれたところがあるならば、それは神からのもの、神の栄光に帰すことに喜びを感じるのです

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