イスラエルの望みのために
✝使徒28章20節
このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです
パウロは「私はイスラエルの望みのために、この鎖に」と言っています。苦難の果てにやっとたどり着いたローマ、その三日後、ユダヤ人の主だった人たちを集めて牢獄の中で言ったのが今日の言葉です。相手はユダヤ人であって、クリスチャンたちではありません。ここに至ってもなお、福音はまずユダヤ人に語られなければならないのです。
「イスラエルの望み」とは何でしょうか? それはメシア預言のことです。これはメシアニックユダヤ人の方のたとえ話です。ある時、車を運転していた人が異常に気づいて車を止めて調べました。するとタイヤが一つありませんでした。そこで乗っていた人たちは、タイヤを前の方に捜しに行ったというのです。
だれでも分かることですが、この人たちはタイヤを見つけることができません。タイヤは走ってきた元の道のどこかに落ちているのです。「メシアはまだ来ていない、これから来る」と思っている現在のユダヤ人をうまく言い表しているとは思いませんか。メシアはすでに来ているのです。それはイエス・キリストというお方です。パウロはそれを何とかして同国人に伝えようとしていたのです。
さて、どうしてユダヤ人は前を捜しに行ったのでしょうか。これは実に不思議な話です。それは後ろを決して見たくないからかも知れません。なにしろ、ガリラヤ人にして大工の子、イエスなる人物をあざ笑い、呪われているとし、むごい十字架にかけて殺したのです。ですからユダヤ人なら後ろを捜してはならないわけです。
ところでユダヤ人はなぜイエス・キリストを冒涜罪で殺したのでしょうか。それは神は自分たちのものであり、律法を遵守 (じゅんしゅ) し天国切符をゲットしているという高慢さのゆえです。神殿で祈っていたパリサイ人と、悔い改めていた取税人のどちらが義とされたか、イエス様のこのたとえ話が分かり易い話です。罪深い人間が「義」とされる、それが自分の力によって、行いによってできるとするところに傲慢があることに気づけるかどうか、が最大のポイントです。
人は自分の力でできないことが分かった時、本当に悔い改めます。それだけではダメで、その自分の罪のために身代わりとなった神の愛が絶対必須でした。ですから罪人はイエスをメシアとして信じ、救われました。私たち異邦人が自分の罪を告白し、イエス・キリストを信じるということは、何という祝福でしょうか。
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