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2018年6月

2018年6月24日 (日)

よりすぐれた賜物

1コリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 本日の聖書箇所には、“よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい”とありますが、これは九つある聖霊の賜物のどれかを指しているのではありません。この“熱心に求めなさい”と同じ言葉が次の14章1節にも使われており、そこでは「愛」「預言」とが同格で“熱心に求めなさい”となっています。「愛」は「預言」と同格ですが、「愛」という土台が先ずあって、その次に聖霊の賜物の代表であり、神の愛を伝える「預言」があるのです。

 Ⅰコリント13:4-7 には次のように「愛」を語っています“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”

 私が若い頃は信仰が引き上げられたら、こんなすばらしい愛のある者にしていただけると思っていたのですが、今は違います。ますます自分の罪深さを知り、ほど遠い姿を見るのです。自分という人間には、これは到底到達不可能、そこでわかりました。これは、本当の愛というものを神様が教えてくださっているのだということをです。ですから、これは人には無理なのです。
 たとえばどんなに願っても子どもが与えられなかった人が、できた人を羨ましいと思うな・・・それは無理なことです。程度問題が重要ですが、それにしても嫉妬がない・・・それは人間を超えている気がします。“人をねたみません”これができるのは神様だけでしょう。間違っても自分ができる、そんな誤解をして自分を責め、苦しまないでいただきたいと思います。この罪深いみじめな私のために、ますます十字架の力が働き、赦されたものとして、赦してくださった神への愛がこんこんと湧いてくるのではないでしょうか。

 神への愛は、十字架の愛で私たちの罪が赦され、エデンの園で断ち切られた関係が回復し、聖霊さまを通し神様を個人的に知ることによって深められて行きます。神様はすばらしい愛なるお方です。Ⅰコリ13:4-7にある通り、神様を知れば知るほど、神様に夢中になり、安心して喜んでこんな自分でもよければ、と自分を捧げるようになります。

 神様を愛するようになれば、当然、愛する方から影響されていくようになります。自分の罪深い性質は本質的に変わりませんが、妬みも以前よりは少し減り、心が何よりも平安になります。しかしそれら良いところがあったとしても、それらはすべて神様の影響であって、自分のものではありませんので、高ぶったり、誇りすることにはなりません。人は神に栄光を帰し、ますます謙虚になります。“さらに勝る道”とは「神の愛」のことであり、このように神様と交わる恵みのことを意味するのです。

2018年6月17日 (日)

神の国は力にある

1コリント 3章16節                                           

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 通読している本日の聖書箇所、正しくは「神の国は言葉にではなく、力にあるのです」です。これは高ぶった者が信仰的な言葉を使って試すので、「力」という実質が言われているのです。荒野の誘惑でも分かるように、サタンは自分の偽りの目的のためにみ言葉ですら引用するのです。その場合、言葉の「力」はまったくないのです

 人間は神を信じる人と、信じない人との二種類に分かれます。信じない人にはこの世と自分が主たる関心なので、世を支配する悪霊の影響下にある人々です。この人々は「自己実現」とかの言葉を使いますが、自分の欲望の奴隷であって、神のされることやクリスチャンを理解することができません。彼らの報いは審きであり、永遠の滅びです。
これら世の人に対し、選ばれた人、神を信じる人がいます。神を信じる人には聖霊が住んでおられます。"あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。"(1コリ3:16)とある通りです。

 しかし自分の中に御霊が住んでおられても、まったく意識に上らないクリスチャンが多くおり、相変わらず自分の人生の主人はやっぱり自分であり続けます。神を主としないその人に神の力は現れません。このクリスチャンのことをパウロは「肉に属するクリスチャン」と言っています。

 御霊に属するクリスチャンは自分に死んで、神に捧げ、しもべとして御霊に聞き従っています。私の経験からは、御霊に属するすべての人は、修行とか善行とか努力で、つまり自分の力でなった人はいないはずです。例外なく神から試練を受け、深い罪に気づかせられ、その罪深さゆえに自分に死んだ人々だと思います。自分に死ななければ新生することは不可能です。神の力が試練を乗り越えさせ、新生させてくださったのです。そして御霊に属する者として、すばらしい祝福を得ました。罪を知らずして、聖霊のバプテスマや新生、献身はあり得ませんし、聞き従いもありません。

 こうして十字架の代価を払って買い取られた者に、自己を誇ることはできません。誇るならただ主を誇ります。そこに賛美が生じます。教会内にあっては、互いに兄弟姉妹として心から愛し合うことができるのは、己に死んで妬みや欲望から解放されているからです。
自分はまだ御霊に属するクリスチャンとなっていないと思われる方、神に熱心に、粘い強く祈り求めてください。神は真実な方であり、あわれみ深く、それはみ心ですから、最善な時に必ず実現させてくださいます。

2018年6月10日 (日)

私たちは主のもの

ローマ 14章7-9節

7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


7節 「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」8節 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 このみ言葉の理解には意外に章末の23節「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。」が具体的な参考になります。しかしこれはちょと理解できにくい箇所です。なぜならこれまでパウロは何度も、食べ物に関して汚れているものは何一つないと説いています。それなのに、たとえ疑いがあったとしても、律法に縛られないで食べることがどうして罪になるのでしょうか。
 しかし前後をよく読むならば「食べる」「食べない」はそれぞれ信仰からしていることです。しかしユダヤ人にも関わらず信仰のある真似をして、禁忌食物を食べるであれば、それは律法違反であって、ユダヤ人を躓かせる罪になるのだと注意して言っているのです。

 ここで大切なことは、信仰によって自分に死ぬということです。信仰義認に立った、いわば信仰が強い人、つまりどんな食べ物も食べられる人でも、未だに律法を遵守する同じユダヤ人クリスチャン(弱い人)に対しては、自制してその人と同じようなコーシャ料理を(彼らと同じように)摂るということ、これが自分に死ぬ愛であると教えています。 

 つまりすべては信仰が原則であり、基準ですが、そこに愛という土台があるのです。その意味で「信仰が強い人は弱い人を受け入れる」という教会の在り方をパウロがここで奨めているのです。個人にあっては主のみ心に聞き従うということがポイントになりますが、教会という御体では、弱い人を愛し、自分に死ぬことが在り方のポイントになります。
 
  これを実際に私たちの教会に適用してみますと、たとえば聖書をよく知っている福音派の方が来られても、また心の病の方が来られても、私たちは愛を持ってそのような方に自分に死んで、愛を示していくことが前提です。知識のある福音派の方には、控えめながら聖霊様の具体的な証しをしましょう。また病のある方があなただけでなく、いろんな方に同じ質問を投げかけていたとしても、そうせざるを得ないその方を受け入れ、愛しましょう。その方は見分けができず、大勢の人から同じ結論を聞かないと、納得できないのです。 私たちは愛を示しましょう。それも自分の力に依ってではなく、神様に祈り、神の力である聖霊の力によって成して参りましょう。

2018年6月 3日 (日)

信じる者はみな、神から生まれた

1ヨハネ5章20節  
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
 

 「罪がわかる幸せ」~救われることを願って、親しい友人や親族の前で福音を語りますと、聞く人は三者三様です。熱心に聞いてくれたり、詳しく知ろうとする人はごく少ないのですが、励まされます。次に聞き流すか、聞きたくない人。霊、魂など見えないもの、現世に関係ないものには関心がないのでしょう。最後に嫌がる、または露骨に怒り出す人がいます。自分を正しいと思っているので、救われなければならないこと、悔い改めなければならないことに抵抗を感じます。まして死後の裁きについて聞くことは、見逃せない不愉快なことなのです。
この違いは、自分の心の中を正しく見ているかどうか、つまり罪意識があるかないかによるものでしょう。その結果、頑なさに違いが生じているのです。

 逆に今礼拝している皆さんは、神に愛され、神の子とされている非常に恵まれた方で、我が国の人口の2%しかいない、つまり五百人に一人という超祝福を受けておられる方なのです。クリスチャン二世を除いて、皆さんの共通項はただ一点、罪が分かったという点なのです。なぜなら、罪が分からなければ悔い改めることができません。罪がわからなければ、悔い改めて救い主、私の罪の身代わりに十字架を受けてくださったイエス・キリストを信じる必要は感じません。ですから、信じる前はどう自覚しておられたとしても、呪われ恐れていた自分の罪深さが、大逆転してクリスチャンには大きな祝福となりました。

 ではどうして自分は罪が分かったのでありましょうか。だいたいは以下の部類に当てはまることでしょう。病の癒やしを求めて。不幸や不条理の理由を探して。自分の能力の低さに解決を求めて。心の傷の空白を埋めたい人、あるいは死を直前にして命を考えさせられた人もいることでしょう。そして神を見出された誰もが、上述した解決を求めて行く中で、自分が、自分がという愚かしさ、罪に気づき、悔い改める心が生じた時に、惨めな自分をも愛してくださった神を知った方が多いと私は思うのです。

 自分の不幸が神を信じ、永遠のいのちがあたえられる幸福を導いてくれました。またそのように、私たちクリスチャンは、本能的に神が父であることが分かるのです。なぜなら、私たちは神の子どもだからです。実の子なら、自分に父が居ることを知っており、たとえ会ったことがなかったとしても、父が父であることが分かるのです。               

 みなさん、父なる神を一層信じ、愛しましょう。小さな子どもが、素直にすべてを父の前で話すように、いつでもどんな時でもお祈りしましょう。父もそれを望んでおられます。そしてそれに答えてくださる、生きたお方が私たちの父なのです。

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