神の国は力にある
✝1コリント 3章16節
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
通読している本日の聖書箇所、正しくは「神の国は言葉にではなく、力にあるのです」です。これは高ぶった者が信仰的な言葉を使って試すので、「力」という実質が言われているのです。荒野の誘惑でも分かるように、サタンは自分の偽りの目的のためにみ言葉ですら引用するのです。その場合、言葉の「力」はまったくないのです。
人間は神を信じる人と、信じない人との二種類に分かれます。信じない人にはこの世と自分が主たる関心なので、世を支配する悪霊の影響下にある人々です。この人々は「自己実現」とかの言葉を使いますが、自分の欲望の奴隷であって、神のされることやクリスチャンを理解することができません。彼らの報いは審きであり、永遠の滅びです。
これら世の人に対し、選ばれた人、神を信じる人がいます。神を信じる人には聖霊が住んでおられます。"あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。"(1コリ3:16)とある通りです。
しかし自分の中に御霊が住んでおられても、まったく意識に上らないクリスチャンが多くおり、相変わらず自分の人生の主人はやっぱり自分であり続けます。神を主としないその人に神の力は現れません。このクリスチャンのことをパウロは「肉に属するクリスチャン」と言っています。
御霊に属するクリスチャンは自分に死んで、神に捧げ、しもべとして御霊に聞き従っています。私の経験からは、御霊に属するすべての人は、修行とか善行とか努力で、つまり自分の力でなった人はいないはずです。例外なく神から試練を受け、深い罪に気づかせられ、その罪深さゆえに自分に死んだ人々だと思います。自分に死ななければ新生することは不可能です。神の力が試練を乗り越えさせ、新生させてくださったのです。そして御霊に属する者として、すばらしい祝福を得ました。罪を知らずして、聖霊のバプテスマや新生、献身はあり得ませんし、聞き従いもありません。
こうして十字架の代価を払って買い取られた者に、自己を誇ることはできません。誇るならただ主を誇ります。そこに賛美が生じます。教会内にあっては、互いに兄弟姉妹として心から愛し合うことができるのは、己に死んで妬みや欲望から解放されているからです。
自分はまだ御霊に属するクリスチャンとなっていないと思われる方、神に熱心に、粘い強く祈り求めてください。神は真実な方であり、あわれみ深く、それはみ心ですから、最善な時に必ず実現させてくださいます。
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