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2018年6月10日 (日)

私たちは主のもの

ローマ 14章7-9節

7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


7節 「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」8節 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 このみ言葉の理解には意外に章末の23節「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。」が具体的な参考になります。しかしこれはちょと理解できにくい箇所です。なぜならこれまでパウロは何度も、食べ物に関して汚れているものは何一つないと説いています。それなのに、たとえ疑いがあったとしても、律法に縛られないで食べることがどうして罪になるのでしょうか。
 しかし前後をよく読むならば「食べる」「食べない」はそれぞれ信仰からしていることです。しかしユダヤ人にも関わらず信仰のある真似をして、禁忌食物を食べるであれば、それは律法違反であって、ユダヤ人を躓かせる罪になるのだと注意して言っているのです。

 ここで大切なことは、信仰によって自分に死ぬということです。信仰義認に立った、いわば信仰が強い人、つまりどんな食べ物も食べられる人でも、未だに律法を遵守する同じユダヤ人クリスチャン(弱い人)に対しては、自制してその人と同じようなコーシャ料理を(彼らと同じように)摂るということ、これが自分に死ぬ愛であると教えています。 

 つまりすべては信仰が原則であり、基準ですが、そこに愛という土台があるのです。その意味で「信仰が強い人は弱い人を受け入れる」という教会の在り方をパウロがここで奨めているのです。個人にあっては主のみ心に聞き従うということがポイントになりますが、教会という御体では、弱い人を愛し、自分に死ぬことが在り方のポイントになります。
 
  これを実際に私たちの教会に適用してみますと、たとえば聖書をよく知っている福音派の方が来られても、また心の病の方が来られても、私たちは愛を持ってそのような方に自分に死んで、愛を示していくことが前提です。知識のある福音派の方には、控えめながら聖霊様の具体的な証しをしましょう。また病のある方があなただけでなく、いろんな方に同じ質問を投げかけていたとしても、そうせざるを得ないその方を受け入れ、愛しましょう。その方は見分けができず、大勢の人から同じ結論を聞かないと、納得できないのです。 私たちは愛を示しましょう。それも自分の力に依ってではなく、神様に祈り、神の力である聖霊の力によって成して参りましょう。

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