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2018年7月15日 (日)

十字架

Ⅰヨハネ 4章10節    【新改訳2017】

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 キリスト教とキリスト教以外の世界のあらゆる宗教とでは、非常に大きな、本質的な違いというものがあります。それが十字架です。ギリシャなどの諸々の神々、仏教、広義にはイスラム教も含まれると思われますが、基本、神は偉大で人間の上に高く座し、人間の弱さや罪、不信仰を怒っています。それゆえ人間は神々をなだめ、身代わりの供え物をいつも捧げなければなりませんでした。

 ところがキリスト教だけはそれを人間の側からでなく、神の側から、それもなんと崇められるべき神自身が捧げられているのです。十字架はその象徴です。このような神は他に類を見ませんし、人間を愛する神の究極的なすがた形が、この十字架だと言えるでしょう。

 なぜ神であるキリストが十字架で死ななければならなかったのでしょう。それは人の罪の大きさに相当し、それを償ない購える存在が他に無かったからです。大切なことは、ただ単に贖うだけでなく、神との関係の回復をすることが真の目的であったという点です。つまり、究極のエデンの園である天の御国に、たくさんのアダムの子孫を加えて、永遠の交わりを再出発させる、これが神のご計画であることです。ですから十字架がわかるためには、「自分の罪がわかる」ことが大前提です。

 実は私がバプテスマを受けたのは、学生運動し、アジっていた自分の高慢さがわかって、悔い改めていた時のことでした。また自宅にも帰れず、ただ星空を見つめていて、星々の規則正しい運行に、天地万物を創造された神がおられることがわかり、それを認めてこなかった罪がわかったからでした。ただまだその時には、罪が本当に心からわかって信じたとは言えなかったと思います。ですから悔い改めが不十分でした。クリスチャンになれた、天国に行ける希望はありましたが、新生したとは言えませんでした。これらは真の悔い改めがなければ生じませんし、それは自分の力では不可能でした。これらを得たのは、その後何十年も経って、大きな試練を経てからのことでした。

 ですから試練があるのはすばらしい祝福なのです。試練がなければ、人は自分の愚かさ、不信仰さ、罪深さのゆえ、神様に自分を明け渡すことができないからでもあります。その時、神は自分に死に、神に明け渡す者を受け取ってくださり、ご自分のものにしてくださいます。それで御霊によって歩む者にされ、御霊の実が実っていくことになります。
 皆さん、十字架がわかり、聖霊の実を実らせる者となりましょう。これを求めることはみ心ですから、必ず聞いてくださいますので、熱心に求め続けましょう。

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