聖霊の力
✝ 使徒の働き 1章8節 【新改訳2017】
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
「聖霊の力」を受ける、とはこの場合、聖霊のバプテスマのことです。しかしこの聖霊のバプテスマはかなり誤解されているのが実状です。どう誤解されているかと言えば、まず第一に多くの教会で異端視されていることです。聖霊のバプテスマや賜物は初代教会の建て上げ時に必要であったもので、聖書と教会が確立している現在ではもはや不要なものであるとしているのです。また、そのように否定していなくても、「聖霊の内住」と「聖霊のバプテスマ」を同一視する教派・教団もあります。これらはともに聖書をよく調べれば誤った理解であることがわかりますが、今回は触れません。
今回の問題は第二の、カリスマを求める人たちの間での誤解です。確かに聖霊のバプテスマは聖霊の賜物の土台であり、神との交わりを開くすばらしいものです。その恵みの体験を聞けば皆、「私も受けたい、ほしい」と思われるのは自然です。
クリスチャン生活が三十年近くなっていた私も同様でした。私も聖霊のバプテスマを受けるために、必死になって求めていた4、5年がありました。まどか牧師も6年も経っていたと書いておられます。秋元牧師も、求めたらすぐに与えられたのではありません。かつてアメリカでは、多くのクリスチャンが悲痛な顔をして、「(得られないのは)私のどこが悪いのでしょうか。弱い人間だからでしょうか」と思い詰めていたとマーリンさんはその著書「賛美の力」で述べています。
ここで「賛美の力」から少し引用させていただきます。「聖霊のバプテスマについての共通した誤った考えがあります。それは聖霊のバプテスマがとにかく私たちに力を与え、私たちの神のために働く力と才能を増し加え、私たちを霊的な巨人にするという考えです。これほど真実からかけ離れたことはないでしょう。それでは何の為に聖霊のバプテスマは必要なのでしょうか。聖霊のバプテスマは私たちを弱くするためなのです。その結果、神の臨在と力がより多く私たちのうちに内在し、また流れ出すのです(p96)。」
またもう少し説明するために言葉を変えて、
「ですから聖霊のバプテスマとは神の霊に満たされて、自分自身を神に明け渡す器としてのきよめであり、その器に神の力が満たされることである(p98)」と述べられています。
ですから、聖霊のバプテスマとは弱くされ、自分に希望を失って悔い改め、自分を神に完全に明け渡すという<弱くされる>ことなのです。これは考えてみれば、その人の主が己れなのか、神なのか、はっきりしていなければ、高ぶってサタン化する可能性すらあるからです。しかし、自分を明け渡すということは、自分の力ではできないことです。ですから聖霊のバプテスマには祈り求め、神の計画と時に自分を委ね、試練や困難を通されての、神の時があるのです。
付け加えますが、聖霊のバプテスマは「聖霊の満たしの最初の現象」と言われている通り、その後も繰り返し繰り返し、満たしを受けていく、最初の第一歩に過ぎないのです。聖霊のバプテスマを受けたことが曖昧な方は、ハッキリと証できるよう、明確な満たしを受けてください。神は喜んで惜しみなく満たしてくださることでしょう。
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