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2018年8月19日 (日)

信じる

✝️エペソ 2章8節    【新改訳2017】

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

  この聖書箇所を見ますと、「恵みのゆえに、信仰によって」「あなたがたから出たことではなく」とあります。バプテスマを受ける時、私たちは自分が信じる決心をしたように思っていますが、実はその裏面で、恵み深い神が私たちを選び、神が信じられるように、ずっと導いてくださっていたのだと言っているのです。ですから「自分の力で神を信じる決心をした」などと誇ってはいけないのです。ただ神のあわれみによって信じる者とされ、救ってくださったと感謝しましょう。永遠のいのちを受けたのです。

 ところが「信じる」ということも、運動会の「パン食い競走のように、ただ飛びついて食った」で終わりにはなりません。信仰にはピンからキリまであるのが実際です。神は「エレミヤ。あなたは何を見ているのか(エレミヤ1:11)」と神はエレミヤの見ている景色をすべてご存知でした。私たちの神は、サタンと異なって人の心を支配しようとはされませんが、私たちが神を信じ、内住されたこの聖霊様に、自ら進んで自分を明け渡し、神のしもべとして世を歩もうとするなら、大きな祝福を用意してくださっているお方でもあります。
 その大きな祝福とはなんでしょうか。私たちの血肉での時間は、天のエルサレムに住む永遠の時間に比べれば、ホンの一瞬に過ぎません。どんなことよりも大切な天での永遠の時間、世での賜物や働きの大小は関係なく、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:23)」と仰っていただけます。つまり天の王座の近くに行けるのです。
 この反対に、神が恐ろしいからと、せっかくの機会を生かさず、地に埋もれさたままにするなら、お叱りを受け、持っているものまで取り上げられてしまうのです。これは大きな違いですが、それはホンの一瞬に過ぎない地上でしたことについての結果、酬いなのです。

 では人は如何にして神の器、しもべとなるのでしょうか。祈り、願うことです。神様を愛し、交われるように、そしてみ心を行えるようにと。愛する、と言うことと、交わる、と言うことはほぼ同じことですから、マルコ12:35でイエス様がパリサイ人にお答えになったお答えと同じになります。

 「信じる」ということは「悔い改める」がその土台です。信じることにピンキリがあるなら、悔い改めにもそうなのです。神様に自分を明け渡すためには、少しでも自分に希望や誇りがあっては不十分です。しかし人間には自分の力でもって、自分を打ち砕くことはできません。ただ試練を通してのみそれは可能となります。ですから神は愛する者に、恵もうとする者に試練を許しになられるのです。
 こうして自分を明け渡す者とされ、献身するもの、神に聞き従う者とされることは、なんという祝福でしょうか

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